王都マグンは、マタイサの町を南下した先にある、小さな森の街道。 モンスターと女がひとり、対峙している。 荒い息を吐いて相手を威嚇するモンスターは、ずんぐりむっくりとした豚のような出で立ちだが、その突き出た鼻の外側に、大きく反り曲がった角を持っていた。片方は折れており、焦げ茶色の毛に包まれた体には矢が何本か突き刺さり、生々しい傷がいくつも刻まれている。 一方女は、額から流れる汗もふかず、両手に握った大降りのランスを低く構えてじっと相手をねめつけている。呼吸はモンスターに比べれば、だいぶ落ち着いている。 「リノ、次で決める」 女がモンスターを見つめたまま言った。モンスターの斜め後ろで待機するリノは、彼女を見て頷いたあと、理力≠フ錬成に入った。 「アイちゃん、それじゃあ『四』よ。さっきと同じ」 モンスターがそれに反応して、ぴくりと動いたが、アイがじりと近づくと、すぐにそちらへと意識を集中させた。 「わかってんじゃないか。そうさ、相手はあたしだよ。次にあたしから意識を逸らしたら、もう次はない。わかってるだろ? さっき、それでミランダに撃たれて失敗した。どちらにせよ、チェックメイトさ」 「モンスターに言っても通じてないって」 リノの後ろにいるミランダが、弓を引いた姿勢のままあきれたように言った。 「いいや、わかってるよ、こいつは。まだリノを狙えばじぶんに逆転の目があるって、知ってる。でも、あたしとミランダがいるから、できないんだ」 「だったら、そんなこと言うのはやめて欲しいわ」 リノが軽口のあと手を降って錬成した理力≠魔法へと変換し始めた。 「来るわよ。一歩目に合わせて」 モンスターがうめき声を上げた。後ろ足の筋肉が膨張する。 「来い!」 アイの叫び声とともに、モンスターは彼女の方へと突っ込んだ。 ミランダがぎりぎりと引いていた弓から矢を発射する。 矢はモンスターの右前足を貫いた。 悲鳴が上がり、モンスターが一瞬スピードをゆるめる。 「四!」 リノがアイに向かって、手をかざす。アイの体じゅうからうすい光がほとばしり、どんと風が起こった。木々がざわめき、彼女の後ろに縛った髪が上空へと煽られる。 「うおおおおっ!」 アイは両目をかっと見開き、地面を蹴った。 「ああーっ、足りないね!」 クエストを終えたあと、王都に戻ったアイは不満げに声をもらした。 「確かにねー。今回のクエストがただの物資運搬じゃなくってゴルトーの討伐だったら、あがりは倍以上は行ってたわよ」 ゴルトーは先ほど彼女らが退治した凶暴なモンスターの名称で、トンカ平原の奥地に生息する。戦闘力はバルーン(青)の約四百倍。 「しょうがないでしょ、前にバジリスクに会った時だって、五千か六千しか上積みされなかったもの。一万で十分よ」 リノはゴールド硬貨を数えながら言った。しかしアイは恥ずかしげに手をふった。 「……いや、お金はいいんだよ。なんていうかさあ、戦い足りなかったというか……そうじゃない?」 ミランダとリノは顔を合わせた。 「また始まった。あんた、頭おかしいんじゃないの?」 「アイちゃんは戦ってる時が一番いきいきしてるからね」 「……否定はしないよ。でも、あいつにはフォーメーションが『四』と『六』しか試せなかった。一直線に向かってくる相手に対しては、たった二つしか確立した戦術がないんだ。しかも、ミランダの補助もあってそれだよ。これってまずいよ」 リノはため息をついた。二人でフォーメーションを作ってからというもの、彼女は戦術や戦闘の内容にやたらとこだわるようになった。 「そんなに戦うのが好きなら、いっそマタイサの傭兵団にでも入りなさいよ。あそこ、結構大変らしいわよ」 「いやだよ、あたしは王都にいたいの」 ミランダがにやにやしながら、手を口に当てる。 「そうね、グランもいるしね」 アイは真っ赤になって彼女を追い回す。リノは再びため息をついた。 「二人とも、遊んでないでさっさと精算するわよ。ゴルトーの角は東部の商店が高く買い取ってるわ」 三人が東部エリアに向かう途中、第二城壁沿いに人だかりができていた。 通りかかってみると、男がふたり、殴り合いをしている。周りの人間は興奮した様子でさわぎたてている。 「なに、もしかしてケンカ?」 ミランダがのぞき込むと、壁に汚い紙が張ってある。 『ケンカ買います。武器はなし。参加料二万五千ゴールド。賞品十万ゴールド』 王都には多くの商人がいるが、こうした催しもれっきとした商売として認められている。詐欺や武器による傷害行為といった大きな問題さえ起こさなければ、たとえその内容がただの殴りあいであろうが騎士団の介入はない。 「マネーマッチね。くだらないわ。さっさと行くわよ」 リノが興味なさげに言うと、それを聞いたギャラリーの一人がこちらを見てわめいた。 「女は黙ってろよ!」 その言葉に、アイは眉間にしわを作りながら、笑みを浮かべた。 わっと歓声が起こる。どうやら勝負がついたようで、男の片方が仰向けになって倒れている。 「なんだ、もう終わりか! つまらんな。さあ、次にこのミハイルに挑戦する者は! 俺は誰の挑戦でも受ける! 今なら連戦で疲れている。誰にでも勝ち目はあるぞ!」 勝者であり、このマッチの主催者でもあるミハイルは声を張り上げた。「疲れている」と口では言っているものの、ほとんど息が上がっていない。大きく盛り上がった彼の二の腕を見て、ギャラリーたちは二の足を踏んだ。 「次はあたしがやる!」 ギャラリーの最後方から声がとんだ。ミハイルを含め、全員が声の主を見る。 「……悪いが、女性は傷つけたくない」 ミハイルはゆっくりと首を振った。しかし当のアイは、リノとミランダの制止も聞かず、闘争心をむき出しにして彼に歩みよる。ギャラリーたちは道をあけた。 「誰の挑戦でも受けるってさっき言ってただろ」 「常識で考えろ。下手したら、騎士団に捕まる」 「へえ、逃げるんだ? 女に負けるのが怖いんだろ」 さすがのミハイルも気分を害したようだった。 「……よかろう、次の相手は決まった!」 ギャラリーがまた沸く。彼らは基本的に騒げればなんでもいいのである。 リノとミランダは必死にアイの腕を掴む。 「冷静になりなさい! あいつ、見た感じかなり強いわよ」 アイは二人を突き飛ばし、リノにランスを押しつけた。 「ごめん。でもあんなこと言われたんだよ。引きさがれない。悪いけど先に精算しといて」 「もう、つきあってらんないわ! リノ、行こう」 「……いいえ、待ちましょう。確かにあの男どもは、私たちのことを侮辱した。アイちゃんなら、やってくれるかもしれない。それにケガしたら、すぐに治療する必要があるわ」 リノはその辺から木箱を持ってきて、自分の席を確保した。 「悪いがこのマッチは前金だ。二万五千ゴールド」 アイは財布から硬貨を取り出し、彼に手渡した。 「後悔するなよ」 「しないさ。だって四倍になって返ってくる」 ギャラリーたちが拍手して大声を上げる。 ミハイルは木箱に乗るリノを見る。 「君は支援職だな。補助魔法の類はすべて禁止だ。使用が認められた時点で、彼女の敗北が決定する」 「案外、臆病なのね」 「違う、これはルールにすぎない」 「はいはい。わかったからさっさと始めて」 ミハイルとアイが対峙する。ミハイルは深呼吸して腰を落とし、構えを作る。 「悪いが、一発で決めさせてもらう」 アイもそれに呼応し、体を彼から見て横向きにした。 「やってみな」 二人の距離がじりじりと近づいていく。ギャラリーの男たちは固唾を飲んでその様子を伺っている。 ミハイルが踏み込んだ。アイもほぼ同時に距離を詰める。 ミハイルは体をひねらせ、遠心力のきいたボディブローを彼女に見舞った。アイの体がくの字に曲がったが、彼女はミハイルの頭を掴み、そのまま膝げりをかました。 二人の距離が離れる。ミハイルは驚きを隠せない様子だ。 「一発じゃ決まらなかったね。効いたけど」 「……なるほど、口だけじゃなさそうだ」 ミハイルは額を手でこすりながら言った。血がにじんでいる。 「アイちゃん、行ける!」 「もうなんでもいいや、やっちまえー!」 二人は戦いを再開した。ミハイルが拳を繰り出し、アイがそれをかわす。二人の拳が交錯する。ギャラリーの大方の予想とは違って、ほとんど互角であった。それどころか、アイが少しばかり押している。 とうとう、ミハイルが膝をついた。 「降参?」 仁王立ちするアイも、大きく息が上がっている。 「バカな、そんなことがあってたまるものか!」 ミハイルが体勢を低くしたままタックルをしかけた。 アイはさっき戦った、ゴルトーのことを思い出した。 「アイちゃん、『六』よ!」 リノの声と共に、アイはその場で飛び上がった。ミハイルの体を飛び越しながら、後ろ蹴りを浴びせる。 ミハイルはバランスをくずし、派手な音をたてながら第二城壁に突っ込んだ。 「やった!」 リノとミランダがおおはしゃぎで彼女の元へと向かった。観客たちは、どちらかというと驚いて声も出ない様子である。 気絶していたミハイルはリノに魔法をかけてもらい、ようやく目をさました。 「大丈夫かい」 アイが問いかけるが、ミハイルは座り込んだままうつむいて何も言わない。 「せめて礼くらいは言ってほしいわね」 リノがつぶやくと、ミハイルは小さな声で「すまない」と言った。 「女だからってナメてたんだろう。だから負けたんだよ」 「その通りだ、返す言葉もない。負けを認めよう」 ミハイルは立ち上がって、アイに金の入った袋を渡した。 「まいど。今後は、そんな先入観は捨てることだね」 アイは吐き捨てるように言ったが、ミハイルは首を横に振った。 「無理だ。少なくとも君に関しては」 「なんだい、あたしが化け物とでも言いたいの? もっかい殴るよ」 「違うよ、逆だ」 「へっ?」 ミハイルはアイの手をとった。 「はっきり言おう。きみに惚れた!」 その場にいる全員が声を上げた。 「なっ、なっ、なっ、なにそれ! 意味が、わからないんだけど! いったいぜんたい、なにが、どうなって、そうなるわけっ!」 アイは一瞬にして顔を紅潮させる。手をふりほどこうとするが、ミハイルはがっちりと掴んではなさない。 「君は俺に充実した戦いをくれた。そして、あろうことか俺に勝ってしまった! それだけで、何よりも魅力的だ! こんな女性がいるなんてな!」 ミハイルは最初の口上の時よりも声を張り上げてわめいた。アイは猛烈な勢いで彼をはり倒した。しかし、ミハイルはものともせず立ち上がった。 「今の投げもすばらしい! 君は未精錬の魔石のようだ!」 「もう、なんなのよ! はなして!」 二人の問答はしばらく続いた。呆然としていたミランダがはっと我に返り、リノを見る。 「ねえ、あれ、止めなくていいの?」 「止めるわけないじゃない。……おもしろくなってきたわ!」 リノの瞳がぎらりと光った。 アイは息をあらげながら「ルーザーズ・キッチン」へと入った。 「ふー、やっと巻いたか……」 「いらっしゃ……ん、どうした?」 出迎えたグランは首をひねった。アイははっとする。 「な、なんでもない」 「そんな風には見えねーけどな。まあいいや、とっとと座れよ」 アイは黙って着席し、とりあえず水を頼んで一気に飲み干した。 まだ心臓がどきどきしている。ミハイルとの戦闘に疲れたこともあるだろうが、彼女はあんなことを男性から言われたのが初めてだった。 だから、わけもわからなくなって逃げ出してしまった。 「見つけた」 リノの声が聞こえた。すぐに振り返ったが、ミハイルの姿はない。思わずほっとする。 「大丈夫よ。あの男は適当にあしらっといたから」 「ようリノ。三十五番だな」 「よろしく」 リノも席につく。 「どうして逃げたりしたのよ」 「そんなこと言ったって。あんなこと言われたら、逃げるに決まってるよ。突然すぎる」 「そうかしら。案外そういうものよ、恋愛って」 グランがぶどう酒を持ってきて、グラスに注ぐ。 「ねえグラン、おもしろい話があるんだけど」 「リノ!」 アイは音をたてて立ち上がった。しかし、リノとグランは彼女を無視するようにして話を続けた。 「へえ、どんな話だよ」 「これが、とんでもないの。アイちゃんがね、十六区画の第二城壁沿いでマネーマッチに乱入したんだけど」 グランはそれを聞いて笑いだした。 「あっ、それ知ってるぞ。ムキムキのあんちゃんがやってる奴だ。賞金十万の。どうせまた、女がどうとか言われてブッチしたんだろ」 「さすがね。しかもその人を倒しちゃったのよ」 「わっはは! さすが、男殺しのアイさんだ」 「驚くのはここからよ。なんと……」 扉が音を立てて開いた。 「見つけた!」 今度こそミハイルだった。 アイはリノをにらんだ。彼女はしれっとしているが、おそらく場所を伝えたのだろう。 「おっ、あんた確か」 「ミハイル・バドルフスキーという。アイよ、探したぞ。なぜ逃げた?」 ミハイルが近づくが、アイは彼の目を見ない。 「あんたが、いきなり変なこと言うからだよ……」 「すまない。つい興奮した。反省している」 「なになに、どういうことだよ」 話をしている二人をちらちら見ながら、グランはリノにたずねた。リノはぶどう酒を楽しそうに飲んでいる。 「これが、話の続きよ。あのミハイルって男が、突然アイちゃんに叫んだの。『惚れた!』って」 グランはぴくりと眉を動かした。 「はぁ?」 「グラン、どう思う? アイちゃんが告白されたのよ」 グランはしばし無言だったが、興味なさげにかぶりをふった。 「ふーん。そいつはなかなか、面白い話だな」 「もう、男らしくないわね。逃げないで。……この際だから聞くわよ。あんた、ほんとはわかってるんじゃないの」 「何が?」 「……殴るわよ」 グランとリノがそんな問答をしている間に、ミハイルの猛然としたアタックが続いていた。 「アイよ、俺は君に運命を感じた。あの拳のぶつかりあいでな。君だって、充実を感じなかったか。幸福を感じなかったか?」 「まあ、それは否定しないよ。運命かどうかは別として、あんたと戦うのはハッキリ言って楽しかった」 「だったら!」 アイは彼を近づけまいと手で制した。 「勘弁してよ」 「なぜだ、何がいけない? 君はフリーだと、リノから聞いたんだ。まさか、ほかに好きな男でもいるのか?」 アイは心の中でリノに舌打ちしつつも、決意を決めてはっきりと言うことにした。 「……うん。そうだよ。だから、ゴメン」 「そうか」 ミハイルは小さく言った。 「わかってくれて、うれしいよ。でも、あんたと戦うのが楽しかったのはホントさ。また行くよ」 「いいや、俺はわかってない。だって君の恋はまだ成就してないんだろう? それならチャンスはある。よかったらそいつの名前を教えてくれないか。ぶちのめして俺の方が強いと証明してみせる」 アイは呆れてため息すら出せなかった。 「あんた、脳みそまで筋肉でできてるわけ?」 「なんとでも言え。俺はあきらめない」 リノがここでようやく二人の話に入る。 「たいしたもんだわ。アイちゃん、教えてあげなさいよ」 「リノ、ひどいよ!」 リノはアイに冷たいまなざしを送った。 「あんたのためを思ってのことよ。いい機会じゃない」 アイは無意識に、カウンターで仕事を続けるグランのことを見てしまう。 そしてミハイルは、それを見逃さなかった。 「彼か?」 「ち、違う!」 「彼なんだな!」 ミハイルはリノに視線を送る。彼女は何度も頷いた。 ミハイルは立ち上がって、グランの前に立ちはだかった。 「お前、名前は」 「やかましいあんちゃんだな。グラン。グラン・グレンだ」 「よしグラン。突然だがお願いがある。彼女をかけて、俺と勝負してくれ」 グランは黙ったまま、アイに視線を送る。 「おいアイ」 アイは意表をつかれて目を開く。 「は、はいっ」 「……困ってんのか?」 「えっ」 「この状況、困ってんのか」 「う、うん」 グランは改めてミハイルを見た。 「いいよ。何で勝負する」 リノとアイは驚いてカウンターに手をおいた。 「もちろん、殴り合いだ!」 「バカいうな。俺は魔術師だぞ。そんで、お前はその殴り合いのプロだろうが。フェアじゃないぜ」 「男と男の勝負に、それ以外のものなど考えられん。……しかし、一理ある。だったらお前は魔法を使ってもいい。ただし、遠距離からの攻撃は禁止だ。あくまで殴り合いの間合いで使え。それなら十分勝負になるだろう」 「確かに、距離が近ければ高レベルの魔法も使えないし、双方に勝ち目があるな。それならいいだろ。明日早番だから、夕方に南ゲートまで来い。魔法は騎士団がうるさいからよ、平原のほうでやろうや」 「話はまとまったな」 ミハイルは手をさしのべたが、グランが仕事に戻るのを見て、それをひっこめ、店を出ていった。 アイは思考停止状態に陥っていた。 リノもまだ、驚いた表情のままだ。 「う、受けるの?」 グランはさも当然のごとく、仕事を続ける。今は勘定の集計をしているようだ。 「しょうがねえだろ、売られたケンカだ」 リノはにやついてグラスを置いた。 「珍しいわね。はっきり言って、勝ち目ないわよ」 「やってみなきゃわかんねーさ。あっちは俺のことを見下してやがる。現に、ルール変更の提案を受けた。そこがつけ目だ」 「ほんとは、ほかにも理由があるんでしょ? 言っちゃいなさいよ」 「あるよ」 その言葉に、アイがびくりとなる。 まさか、まさか。 「あいつに勝てば十万。それがあれば、今のつけが全部精算できる」 がくり。アイはこうべを垂れた。 「もう、つまんないの」 リノはつんとして顔を背け、ぶどう酒を飲んだ。 |