カジノ『ダスク』に足を踏み入れた春麗は、ギャンブルに興じつつも施設内を注意深く見回っていた。チップの数は確実に増えている。
「あそこが怪しいわね」
彼女はある部屋に目を向けた。このカジノの中で、唯一仕切りがもうけられ、その入り口には先ほどと同じように、スーツ姿の男たちが立っている。いかにもである。
「申し訳ありませんが、こちらは特別会員専用の部屋となります」
通ろうとすると、やはり声を掛けられて別のギャンブルにトライするよう促された。だが、それで諦める春麗ではない。
「その、特別会員ってやつになりたいんだけれど」
あぁここは本当に蒸すわね、とおもむろに胸元をあける。男たちの目は、ある部分へと釘付けになった。
「誰か、別の会員様からの紹介が必要です」
「あら、じゃあ簡単じゃない。あなたの紹介で入ることにするわ」
春麗は上目遣いで微笑みながら男を見る。足を彼の股へと絡ませると、体を密着させた。
「残念ですが、私は会員ではありません。お引取りを」
だが、押しやられてしまった。春麗は男を睨むと、すぐに引きかえしていった。
「おいおい、上玉だったじゃないか。入れてあげてもよかったんじゃないのか」
「ああ、俺だってもったいないと思ったさ。でも、今日はボスがいらっしゃって下さっているんだ。怪しい奴を入れるわけにはいかないね」
入り口の男たちはしばらくのあいだ、さっきの美女の話で盛り上がった。
数十分後、その美女が再び現れた。
だが今度は一人ではなかった。初老の男性と腕を組んでいる。男性は満面の笑みでカードを差し出した。
「いらっしゃいませ、特別会員さまですね。ですが、彼女は……」
「彼女と一緒に入りたいのだが」
「申し訳ないのですが、今日は特別な日でして、エスコートといえども、特別会員でない人間を入れるわけには」
「では会員に入れてあげてくれ」
「それならば、後日正式な書類を作って頂きたいのですが」
そこまで言うと、特別会員の男は眉間に皺をよせた。
「おい、特別会員のこの私が言うのだぞ。文句があるのか」
「しかし」
スーツの男は食い下がったが、隣の相棒がこっそりと口を挟んだ。
「待て、この方はカジノでも有数の上客だ。逆らっちゃ面倒だぞ」
沈黙の後、スーツの二人は頭を下げた。春麗はすまし顔でドアの中に入っていった。
「すまないね。聞き分けの悪い奴らだったな」
「いえ、そんなの気になりませんわ」
二人は暗い廊下を歩いていく。一体どこに繋がっているのだろう。
「それで、さっきのアレなんだけど……」
「なんでしょう」
「あとでもう一回、頼めないかい」
春麗は思わず絶句してしまうが、気持ちを悟られぬようにゆっくりと言った。
「ええ、かまいませんわ」
最低な男。春麗はなんとか笑ってみせた。
廊下の先は、開けた場所だった。コンサートホールのように、席が階段上に並べられている。中央には舞台が見える。暗くてよく見えないが、席はほぼ満席のようだ。そのくせに、やたら空気は澄んでいるのが不思議だった。男は迷うことなく、一番前へと腰掛けた。
「おいで」
「一体、何がはじまるんですか」
「面白いぞ。見ていなさい」
なんとなく予感はあったが、やはりそうだった。舞台の袖から二人の男が出てきて、殴り合いを始めたのだ。闇闘技場だ。もしかしたらシャドルーとも関係ある施設かもしれない。
上客の男がそれに夢中になっているので、春麗は辺りを見回した。ある地点で、彼女はおぞましい寒気を感じた。
中央の方に、一人の男がたたずんでいる。少し位置が高い席だったので気づくのが遅れたが、その男はこちらをじっと見据えている。マントのようなものを羽織っている。もしかしたらここに来た時からずっと見られていたのかもしれない。よくよく見ると、男の周りの席には誰も座っておらず、何人かの女たちと、二メートルはあろうかという背丈の男が取り囲むようにしていた。
春麗と男は、見つめあう形になる。ふと、男の口が動いた。不思議なことに、男の言わんとすることが理解できた。
ようこそ 春麗
春麗はぞっとして、すぐに席を立とうとした。だが、マントの男が睨みつけると、突然力を失って座席に押し付けられた。男からは薄く輝きが見えた。
「気功=c…!」
男はさっと手を上げた。すると、戦っていた男たちはぴたりと戦闘をやめた。歓声が収まり、観客も席を立ちはじめる。先ほどの上客の男も、何も言わずに去っていった。春麗は声を掛けるが、返答は何も戻ってこなかった。
そして、ホールには春麗とマントの男の集団だけが残された。
「どういうつもり!」
「春麗、きみが来るのはわかっていたよ。予感がした」
マントの男が声を上げた。
「あなた、誰なの。どうして私のことを知っているの」
「覚えていないのも、無理はないだろう。きみに最後に会ったのは、確かきみがまだ物心がつく前だったな。美しく成長したものだ……。まあ、きみのお父さんの友人というところだ。今日という日のために、私はすばらしい見世物を用意した。楽しんでいただければ、幸いだ」
マントの男は指で座席をたたいた。中央の舞台に、男が二人現れた。二人とも、黒いラバーのようなものを着ていて、顔にはかぶせてある。
二人の戦いが始まる。実力はほとんど互角だった。春麗はわけもわからずそれを見ていたが、途中途中で、それが見覚えのある構えだと気づいた。
戦いが佳境を迎えつつある頃になると、春麗は涙を流し初めていた。片方の、仮面がはがれた。
「お父さん!!」
戦っている男の片方は、春麗の父親だった。
「お父さん、私よ、春麗よっ! どうして、聞こえないの!? 戦いを、戦いをやめさせて!」
春麗の父親は、全く気にすることなく戦いを続けている。
マントの男はその様子を見て、にやにやと歪んだ笑みをうかべた。
春麗は理解した。この施設はシャドルーのものだったのだ。
「どうした、春麗。はやくしないとお父さんが死んでしまうよ。助けてあげないのかい」
しかし、体に力が入らない。あの男になにかされているせいだ。
「お父さん、お父さん……」
だが、ずっと探し続けていたひとが今、目の前にいるのだ。春麗はありったけの気功≠腹に練り始めた。マントの男は興味深そうにそれを見ている。
「やはり、銅昴(ドウ・ライ)の娘だけあるな。なかなかのパワーだ」
春麗の気功≠ェ膨張を続けていくと、父・銅昴がかすかに反応を示した。
「お父さん、思い出して。こうやって、わたしに気功≠教えてくれたでしょう」
銅昴の瞳は、みるみるうちに正気を取り戻していく。その様子を見て、マントの男は不機嫌そうになる。腕を掲げ、春麗に更なる負担を掛ける。しかし彼女はそれでも気功≠練り続けた。
「春麗、そこにいるのは春麗か」
そして、春麗の願いは叶った。銅昴が洗脳から己を取り戻したのだ。
「お父さん! 会いたかった! ずっと探したんだから!」
だが、その声は最後まで届かなかった。
いつの間にか舞台に上がっていたマントの男が、銅昴の胸に腕を突き入れた。
「洗脳が解けてしまうとは。親子の絆とは厄介なものよ」
「きさま……。やはり、シャドルーはお前の組織だったのか。ベガ……」
銅昴は血を吐きながら地面に倒れた。マントの男、ベガはその様子を恍惚と眺めている。
春麗の悲鳴が、ホールに響いた。
何かを失ってしまった春麗のもとに、ベガが歩みよる。
「お父さんが死んでしまって、残念だったね。どうだい、気分は」
春麗はその質問に答えることすらできない。
「最悪のようだね。我がシャドルーに逆らうと、こうなるんだ。わかったかい」
春麗はぼそっ、と何か言った。ベガはもう一度、といわんばかりにゆっくりと耳を向けた。
「くたばれ」
ベガは低い声で目を細めた。
「こんな状況だというのに、威勢のいい娘だ。せめて一瞬で葬ってやろう」
ベガは腕を掲げて、力をこめた。波動≠フようなものが体中にまとわれる。だが、突きを撃つ寸前で、ベガは何かを感じ、それをやめた。
次の瞬間、壁が激しい音を立てて吹き飛び、ホールに一人の男が入ってきた。