拳が打ち上げられ、リュウは吹き飛んでいった。昇竜拳をくらったのだ、まず立ち上がれまい。天に昇り続けるオレは下を向いて、その瞬間を確認しにかかった。
だが、リュウは空中で回転し、手をつきながら着地した。
負けを確信した。
体が上昇力を失い、降りてくる。好きにしてくれ、そう思った。リュウは案の定、あのバチバチ波動を集めている。
着地すると同時に、それはオレの視界をほとんど埋めた。その時チラッと、あいつの顔が見えた。
泣いていた。
その時、目の前がフラッシュバックして、あるビジョンが浮かんできた。
砂漠や、ブリザードの中を誰かが歩いている。あんな格好で、ばかなやつだ、死んじまうぞ。一体誰だろう。
場面は移り、美女が現れた。さっきの誰かが、その女性になぐりかかっている。なんて失礼な野郎だ。かと思えば、屈強なプロレスラー、……なんだ、こいつは。 よくわからんが、おぞましいモンスターとも戦っている。すごい波動≠まとっている。こいつとは戦いたくないな。
見ているうちに、その様子がだんだん面白くなってくる。すごいな、まるで映画だ。おっと、今度は知っている場所だ。これはアメリカだ。綺麗な青空が画面に挿入されたあと、また、誰かと戦っている。きっとアメリカ人だろう。
場面がまた変わり、よく知っている光景が映し出された。ロスの街並み。この曇り空、そして、赤い胴着を着た、金髪のアメリカ人。これまでぼやけていた主人公の顔が、どんどんはっきりしてくる。あのうんざりするほど、どこまでも透き通った強いまなざしは。
なんとなくわかっていた。これは、リュウの旅路なのだ。
こんなの、勝てるわけねえ。いったい、どれだけの修羅場をくぐってきやがったんだ。
ちくしょう、なんで師匠を探すんだ。もう、これだけ強いんだから、修行なんて終わりでいいだろう。
どうしてだ、リュウ。どうしてそこだけ、お前の波動≠ノ触れてもわからないんだ。
なぜ、そんな目を向けるんだ……。
起き上がると、体中に鈍痛が走った。どうやら、どこかの病院らしかった。さわさわと、小雨の音が聞こえてくる。
しばらく忘れていた敗戦の感覚に、不快感を覚えた。だがそこには、奇妙な懐かしさとさわやかさがあった。
「ケン、起きたの」
イライザがやってきた。
「リュウは」
「あなたとリュウさんがファイトしてから、半日近く経ったのよ。あの人は病院まで私たちを送ると、少しして出て行ったわ」
思わず拳を握り締めた。なぜ気を失ったりなんかしてしまったんだ。
「何か言っていなかったか」
「あれを」
そう言って、机の上を指差した。蛇腹折りにされた紙切れが乗っている。痛さをこらえて立ち上がろうとすると、イライザは何も言わずにそれを取ってくれた。
オレは紙をひらいた。リュウの字だ。察してか、イライザは後ろを向いて果物を切り始めた。
『まず謝らなければならない。ひさしぶりに会ったというのに、あんなことになってしまってすまなかった。ただ、どうしてもケンの波動≠感じたかった。おまえもきっと、あのファイトを通して俺の気持ちをなんとなく察したことだろうと思うが、ある程度は言葉にしておく必要もあると感じたので、この手紙を書くことにした。
俺がこれからどうするつもりなのかは、お前に言ったとおりだ。ケンの気持ちも、波動≠通してわかったつもりだ。お前だって師匠に感謝していることに変わりはなかった。だからこそ俺と対立することになってしまったわけだが、これはしょうがないことだったと思う。師匠に対する気持ちが違っていて、お互いそれを大事にしていたからだ。
俺はなんとしても、師匠を見つけ出すつもりだ。お前にとって師匠がどういう存在なのかはわからないが、俺にとってあの人はただの武術の師匠というだけでなく、父と言っていい存在だからだ。ケンには理解できないかもしれない。だが俺はもう、わかって欲しいとも思わない。ケンは、ケンの考えを大事にして欲しい。
お前は、お前の道を行け。
俺は、俺の道を行く。それだけだ。
最後に、ひとつ感謝したい。
俺を世界に出してくれて、本当にありがとう。
次はお互い、気持ちいいファイトをしよう。
その時まで、髪留めは返さないでおく。
いつかまた、どこかで。
おまえの兄弟・リュウ』
しばらく呆然となって、文字を見つめていた。
オレはなんてことを言ってしまったんだと感じた。
リュウにとって師匠は、父だったのだ。どうしてそれに気づかなかったのだろう。なぜ、気づけなかったのだろう。
港で会ったリュウは、あの日の、自暴自棄になって夕日を見ていたオレだったのだ。あの時リュウは、なんと言った? あの時オレは、なんと言った?
オレは、あの日の自分をむげに突き飛ばしたのだ。
わかるわからないなど、どうでもいいことだった。
どうして、少しでもわかってやろうとしなかったのだ。
「それと、これを」
リンゴの入った皿を置いて、イライザは何か取り出した。くたびれた通帳だった。
「アメリカにきてから貯めたんですって。車の修理費に使って欲しいって。断ろうとしたんだけれど、彼は行ってしまったわ」
開いてみると、半年ほど前から何度も入金した形跡があった。なぜ、リュウが通帳を持っていたのかはわからないが、きっとファイトマネーをこつこつ入れていたのだ。
驚いたことに、ロールスロイスは無理でも、高級車の一台や二台は簡単に買えるほどの額面だった。もちろん修理なんかじゃ、全然使い切れない。
「一体、何回ファイトしたらこんな金額になるってんだ」
「ほとんどしゃべらなかったけれど、わたしはあのリュウという人から強い優しさを感じたわ」
自分が、酷くみにくくみえた。オレが得た金全部を合わせても、リュウのこの通帳には敵わない気がしてならなかった。
明るかったはずの道が、突如暗闇に晒されたようだった。いや、明るかったのではない。そう見えていただけなのだ。オレの目が、昔見た光にやられておかしくなっていたのだ。
心の全てが、はじけとんだ。言葉が出なかった。
それでも、オレには進まなければならない理由が、もう沢山あった。
「イライザ、帰ろう。明日から、また大忙しだ」
オレは、様々な気持ちをこらえて言った。
「嫌」
だが、イライザは顔をそむけて立ち上がった。
「その言葉は、嘘でしょう。あなたはそんなことを思っていない。うそだと言って。でないと、わたしはあなたを嫌いになってしまうかもしれない」
「……ああ、うそだよ。でも、オレはもう戻れないんだ」
「それは、思い込みじゃなくて。あなたはそれでいいの?」
彼女はオレの気持ちを理解していた。波動≠ナも使えるのだろうか、いつもそうなのだ。だが、今だけはそれが鬱陶しかった。
「だったら、どうしろってんだよ!」
「わたしが言う必要はないでしょう。ケンにはとっくにわかっているはずだから」
「……もう、会えなくなるかもしれないんだぞ」
「いいわよ。うそをつきながら、後悔して生きるあなたは見たくないもの」
「オレには、沢山の責任があるんだ」
「そんなものより、もっと大切なものがあるはずだわ。他は、わたしが全部負う」
「いいのかよ」
「ええ、いいのよ」
思わず、オレはイライザを抱きしめた。体の痛みなんてもうどうでもよかった。彼女は超然とほほえんでいる。
マリアだ。女神の煌きが、道を照らし出した。
その日のうちに、それを踏みしめることに決めた。少しでも決意が揺らぐのが怖かったのだ。
「それじゃあ」
イライザは何も言わず、俺に唇を向けた。
しばらく、ふたりで溶け合った。
「戻ったら、結婚しよう」
「ええ、ふたつ、目的を果たしたらね」
オレは歩き出した。
空は快晴で、長い細雲がひとつ、天に向かって上っていた。