「帰ってきたな」
ケンがつぶやくように言った。目の前には山が広がっている。この青い空、そして新緑の緑。見慣れた景色だ。
「ああ、久しぶりだ」
あれから俺たちふたりは、修行のために日本へと戻ってきた。
『ダスク』の一夜で起こったことをケンに話すと、彼は少し考える仕草をしてから口を開いた。
「そうか、そんなことに。どうやらお前の言っていたことは全部正しかったみたいだな」
ケンはすまなそうにしたが、そんなことはとっくにどうでもいいことだった。来てくれただけで、俺はもう死ぬほどうれしかったのだ。
ちなみに、師匠の生死だけはうやむやにしておいた。とてもじゃないが、俺自身の気持ちの整理がついておらず、話すことができなかった。現状は絶望的だが、まだ信じたくないのかもしれない。口にしてしまったら最後、それが真実になってしまう気がして怖かった。
「それで。ベガって野郎にチュンリーっていうガールフレンドをさらわれて、修行をして大会に出場しろって言われたんだよな」
「ガ、ガールフレンドなんかじゃない」
思わず赤くなってしまう。
「全くよう、恥ずかしがるような年じゃねえだろうが。ま、そんなことはいいとして……なんともみょうな話だよな。どうして敵である、お前のことをみすみす逃がすようなマネをしたんだ。しかも大会ときた」
「わからない。もちろん何かもくろみがあるには違いないだろうが、行かないわけにもいかない」
「そうだな。とにかく行ってそいつやあのくそったれサガットをぶっ潰してやればいいんだから。思い切り後悔させてやろうぜ」
そうは言うが、ベガはとてつもなく強い。これまで戦ってきた誰よりも。はっきり言って一ヶ月かそこらの修行で奴を倒せるほどの力を身につけることができるか心配ではある。
ただ一つ可能性を感じるとすれば、あの時俺からあふれ出した殺意の波動≠ナある。ベガはあの力こそが俺の求めた答えだと言った。確かに、恐ろしいほどに強大なエネルギーだった。
だが、きっとあれは俺の歪んだ気持ちの表れなのだろう。あんな禍々しいものが、師匠の言った「ある境地」だというのだろうか。あんなものが、俺たちの修行の到達点なのだろうか。これも、どうしても信じたくなかった。
「おお、リュウか! 戻ってきたのだな、おかえり」
寺に寄り、爺さんに顔を見せると、彼はたいそう喜んだ。「おかえり」という言葉が、心に嬉しい。
「それにしても、ちょうどいいタイミングだなあ。お前やゴウケンさんのことを探しているという人が、今日ここに来たよ」
「おいおい爺さん、まさかそいつ、ベガって名前じゃないだろうね」
ケンが神妙そうに言う。それはない。俺はともかく師匠を探しているなんてことは、ない。
「名前は聞いていないんだけど。体の大きなお相撲さんだよ」
俺とケンは顔を見合わせた。
ふもとの町まで降りてみると、小さな食堂で腰掛ける彼を見つけた。
「エドモンドさん!」
彼は振りかえると、その巨体をすくっと立ち上がらせた。
「おお、いたいた。久しいな、リュウケンコンビ。二人ともでかくなったじゃないか」
「エドモンドのおっさんも元気そうだね」
「帰化して名前が変わったんだ、ケン。いまは本田と名乗っている」
エドモンド……本田さんは、元力士で師匠の友人だ。以前はよく城にも遊びに来て、俺とケンをこてんぱんにして帰っていったものだ。たしか、最後に話したのが師匠が蒸発した翌日の電話だったから、約三年ぶりの再会である。
「それで、ゴウケンさんは帰ってきたのか」
俺は答えられなかった。代わりにケンが、俺の体験したことを要約して伝えた。
「そうだったか。要はその大会に出て、ベガという男を倒すために日本に戻ってきたわけだな。そうでなくても、お前たちは昔に比べてかなり腕を上げたように見えるが、その男も相当のものなのだな。ベガか……いや、まさかな……」
「なんだよおっさん、思わせぶりな反応しやがって。ベガのことを知っているのか」
本田さんは頭をかいた。どうも言うべきか言わざるべきか、迷っている感じだ。
「確証はないが話そう。昔のゴウケンさんの修行仲間に同じ名前の男がいてな。わしは実際に会ったことはないんだが、ゴウケンさんと共に波動≠フ技術を磨いていたそうだ」
ベガの口調からも、なんとなくそんな節があったような気がする。もしかしたらその男なのかもしれない。だが、もしそうだったとして、どうして二人は袂を分かったのだろうか。
「まあ、どっちにしろ俺とリュウでぶったおしてやるけどさ。それで。エドモンドのおっさんは何しにこんな所まで来たんだい」
「おお、そうだった。来てくれ。話の続きはそちらでしよう」
俺たちは食堂を出た。
本田さんに促されるまま連れて行かれたのは、ある銭湯だった。ここは、よく知っている。修行をしていたころ、たまに師匠やケンと一緒に来ていた。高くそびえる煙突には汚い字で大きく「ホンダ」と書かれている。
「ホンダって」
ケンがつぶやいた。本田さんは何も言わずに、俺たちを入り口へと押し込んだ。
浴場へ入ってみると、当時と何も変わらない様子だった。いくつかの点を除いては。
「おい、なんだよこれ。すごいセンスだな」
「大入」と大きく書かれた提灯や、日照富士に浮世絵の壁絵など、ケンの言うとおり、独特なアクセントが添えられていたのだ。なかでも圧巻なのが、タイルに埋め込まれた大縄だ。円を囲み土俵の体を成していた。
おそるおそる浴槽に浸かる。よかった。こちらはそのままだ。
「現役の頃、スランプなどで落ち込む度にわしはお前らのところに顔を出して、そのあとこの銭湯で心を落ち着かせていたものだ。ところが引退してから、ここが解体されると聞いてな。思わず勢いで買い取ってしまったんだ。そういうわけで、挨拶しようと思っていたわけだ」
本田さんはおおらかに笑った。せっかくなので自分の好きなように改装した結果がこれらしい。ちゃんとお客さんが来るのかどうか、少しばかり不安である。
「それにしても、おまえたち。いい体つきになったな」
本田さんは俺たち二人を何度も見比べた。そんなに変わっただろうか。
「おっさん、どうしたんだよ。なんか様子が変だぜ」
「震えが止まらんのよ。屈強のファイターを目の前にして、わしの力士魂がふるえておるのだ。この感覚、本当に久しぶりだ」
本田さんの体から、波動≠ェゆらゆらと現れ始めた。それを見て、俺からも勝手に波動≠ェ立ち上った。本能が戦いを望んでいるのかもしれない。
「リュウもおっさんも、ギラギラ波動¥oしやがって。……ま、オレもだけどよ」
ケンも続く。気づけば三人とも浴槽を出て、タイル上に作られた土俵上へと出ていた。
「ふたりで来い」
体をはたいて気合を入れた本田さんは、腰を低くして構えた。相撲のスタイルだ。
「リュウ、なめられてるぜ」
「だが、久しぶりにふたりで戦うのも悪くない」
俺とケンは胸を叩き合って、本田さんに立ち向かった。
咆哮と共にケンが走った。俺はそれに続く形になる。土俵は大して広いものではないので、あっという間に本田さんの間合いまで入ってゆく。
二人で囲むようにして拳を振るう。しかし、本田さんは全てそれらを裁いた。大きく手を広げると、波動≠爆発させて俺たちを突き飛ばした。
体勢が整う前に、こちらに向かって走ってくる。体を掴まれると、タイルに向かって思いきり叩きつけられた。本田さんは波動≠大きく放出して飛び上がると、そのまま俺の上に落下して追いうちをかけた。
やはり強い。引退してからもう何年も経っているはずなのに、全く衰えが感じられなかった。
「大銀杏投げを食らって立つか。やはり強くなった」
「よそ見してんじゃねえよ!」
ケンが後ろからハイキックをしかける。しかし、全く動じることもなく、足を掴まれるとそのまま抱き上げられてしまった。強烈な鯖折りだ。
俺は波動≠練り上げて飛ばした。本田さんはそれ見るとケンを浴槽に投げとばし、片手をのばして受け止めた。そのまま突っ込んでストレートを彼のこめかみへとたたき込んだ。だが、これも大して利いていないようだ。
「波動拳も完全にマスターしたか。だが、威力はまだまだだな」
「リュウ! こうなったらあのバチバチ波動≠くらわせてやれ」
言われなくともそのつもりだ。俺は波動≠重ねあわせた。波動≠ヘうなりをあげて、圧縮されてゆく。本田さんはその様子を不思議そうに見ている。
二度目の波動拳は本田さんに命中した。怯んでいるすきに畳みかけてしまえと、俺たちは彼の方向へと向かっていった。
「甘いわ!」
だが、本田さんはそうダメージを受けておらず、俺たち二人に強烈な張り手を見舞った。彼から波動≠ェ放出される。かわさねばと思ったが、次の瞬間にはもう一度張り手が頬を叩いた。意識がそれを理解する前に、何度も何度も張り手がやってきた。本田さんの得意技だ。
俺とケンは立ち上がれなかった。本田さんは満足げに笑った。
「やはり、強くなった。わしの攻撃に、ここまで耐えられるようになったんだからな。百烈張り手を受けて気絶せんとは恐れ入った」
「くそったれ。やっぱり強すぎるぜ、このおっさん」
ケンが悔しそうに毒づいた。