『ルーザーズ・キッチン』のマスターは、言葉通りにキャムを満足させてくれたようだ。 ナプキンで口周りをぬぐうと、一つ息を吐いて、キャムはいつもの表情になっていた。 「ごちそうさま」 手を合わせたキャムに、マスターが笑いかけた。 「お粗末様。いい食いっぷりしてんな、嬢ちゃん。見てて気持ちがよかったよ」 くい、と口に水を含んで、キャム。 「見られていてもあまり気持ちがいいものじゃない。あと、言うほど粗末じゃなから安心していい」 その物言いに少しヒヤリとしたが、マスターは豪快に笑った。 「はっは、あんがとよ。いつも文句しかいわねぇ客ばっかりだからよ、その言葉をきいて安心したよ」 「「文句なんていったことないよ!」」 先ほどの男性二人、食事は終えたらしいロッシさんとグレンさんが同時に叫んだ。 マスターがロッシさんとグレンさんをジロリと睨んだ。 「ほーう、水だけで一日座ってダベってるだのボッタクリだの料理がマズイだの散々言ってくれたのは誰だっけな」 「「はい、それは僕たちです!」」またきれいなハーモニー。僕の心臓がカエルのように跳ねた。 今なんて言った? 染み出してきた汗が落ちるよりゆっくりと首を動かして、横に座るキャムを見た。 プレッシャーに負けて瞼を閉じた。それでも、ここ最近で一番の空気の揺れを感じてしまった。 「この料理をあなたたちはまずいって言ったの」 地の底から這い出てくるある種の毒素のような声。 注意報解除から一転、避難勧告発令。誰か助けてください。 マスターがキャムを見て、「うっ」と言葉を飲み込んだ。 キャムがゆっくり振り返った。スツールを降りる。その足音が、しない。 「そうさお嬢さま。こんな偏屈ジジイのやってる悲しい店なんかより、もっとおいしい料理屋があるのさ」 グレンさん。ごめんなさい。僕はとめられません。 「へーだ、たった6時間テーブルで寝てただけで怒鳴られる店なんて、ボッタクリじゃねぇか」 こっちはロッシさん。ごめんなさい。あなたも助けられません。 僕はキャムの変わり様に動けないでいるマスターの後ろに、救世主になるかもしれないものを見つけた。 苦肉どころか苦骨の策だけど、腹をくくるしかない。僕が腹をくくるか、二人(と多分後で、僕)が首をくくるかだ。 マスターに声をかけて、その最終兵器をとってもらう。受け取ったその重みが僕を安心させた。 「……あの小娘の分まで」 キャムのつぶやきはおそらく僕にだけきこえた。 もし、もしも今日を生き残れたら、二人にお礼を言おう。 『あなたたちは一人の少女を救いました』と。 キャムがしゃがみこんだ。上半身を捻った。 「だから、キャムちゃん、だっけ。俺とそっちの店にいかな」 グレンさんのくどき文句が途切れた。 キャムの頭を中心とした小さな台風のようだった。グレンさんに痛烈な足払い。 大きな音がして、グレンさんは床に転がった。 仰向けのグレンさんは、頭を打ったのか動かない。 「うぅ……」 グレンさんのうめき声でロッシさんが気付いた。 「なにが」 言い終わらないうちに、キャムの振り向きざまのフック。 ロッシさんの腎臓にキャムの左拳がめりこんだ。強烈なキドニーブロー。 僕はいろんな意味で胃が痛くなった。 ロッシさんは膝をついて倒れこみ、そのまま床の木目と口付けをした。 「なにが、なにが?」 キャムが死刑宣告を告げるような声で尋ねた。キャムの疑問符は、キケン。 「意味が……ゲェッ、わからんのだけどもォェッ……いでぇ」 ロッシさんが顔を伏せたままうめいた。 「……絶対に頭割れた。上等な中身が……ガンガンする……絶対こぼれたぞちくしょお」 グレンさんが天井を仰いだまま言った。 「やったなグラン、ちょっとはボェッ、まともにウェッなるかもな」 この状況でも止まらない二人のやり取りを、キャムがさえぎった。 「意味がわからないの。なら教えてあげる」 言いながら、屈みこむロッシさんの後ろにゆっくり移動した。 右足をゆっくり、高く引いた。横に奔るギロチンの刃がセットされたようだった。 僕のトラウマ。キャムが足をあげたら、股間がきゅーっと縮こまる。 いけない! あれをくらったらロッシさんの『息子さん』にスペアがない限り、今後は女性として生きていかねばならなくなる。 ここしかない。もう、なるようになれだ。 「み、緑色の草!!」できる限りの大声で叫んだ。 少しでもキャムの気がひければ、なんでもよかった。なんでそう言ったのか分からないけど。 叫んでから、マスターからの秘密兵器を『口に含ん』だ。 駆けた。スツールから二歩でテーブルまで跳んだ。 ちら、と僕をみたキャムの頭を両手で掴んで、間髪入れずに唇をふさいだ。 含んでいたものをキャムの口に流し込んだ。誰も声を出さなかった。 もっとも何か言っても僕には聴こえなかったろうけど。 四肢を突っ張ったキャムの喉が鳴って、僕は勝利を確信した。 唇を離す。舌が燃えるように熱い。 「けほっ」 キャムがむせた。 少しだけ僕は後ずさり。 キャムの表情はうつむいていて分からない。 ぱちん、ぱちん。恐怖の音が聞こえた。 「うそん」 キャムの髪の毛が比喩でなく逆立っていた。 間に合わないの? キャムが顔を上げた。 まったくの無表情で、重鉄の柄を握った。僕は瞼を閉じた。 ああ神様。 と思ったけど、いつもは信じてないですから、今回もまぁいいや。さようなら。 首か腹か。ぐっ、と歯を食いしばった。 ガキョッ、と床が鳴った。 開いた視界、床に落ちた剣が見えた。 キャムが眉をひそめ、目を閉じていた。ゆらゆらと揺れている。 「……舌が喉と食道に胃は全部で痛い。なにをしたの」 知らないうちに息を止めていたらしい。大きく吐いた。 カウンターを指差す腕が震えた。 「……ヴォルガド。ピートで4回蒸留した、無味無臭の強い、お酒」 キャムが僕の指の先、カウンターの上にある瓶を眺めた。その視線も定まっていない。 「強いの。そうなの。明日のカーテンは重いと思う」 ふらふら。口調もたどたどしい。 「そう、かもね。あさっては?」 ゆらゆら。変なダンスのステップを踏む。 「あさっては小石を拾う日。比べてみればどっちが若いか分かる背比べ」 ぐらぐら。上下左右に揺れるキャムにだけ地震が起こったみたいだ。 「そう、なんだ。えーっと、じゃあ一ヵ月後は?」 がたがた。僕の膝も震えていた。 「レールの上で溝が跳ねてる。うぅ、その幹じゃない。あ、こっちの羽は伸ばしてもいい」 「そっちって、どっち?」 「氷の幅がもうしなくなって、らーるーるらー……」 音程が無茶苦茶な歌を唄うキャムの頬が真っ赤になっていた。 キャムの数少ない弱点。空腹と、アルコール。 量に関係なく、飲んだ度数が10%でまともに立っていられなくなり、30%で接続詞がむちゃくちゃになる。 キャムに口移しで飲ませた(方法は何度も言いたくない)ヴォルガドは、実に56%のアルコール度数だ。 アルコール度が40%を超えると(今まで料理のフランベに使われて、半生で火が通っていなかった時の一回しかないけど) 会話が支離滅裂になって、やがて全身に回ると、卒倒する。 グランさんより少し控えめな音を立てて、キャムが床に倒れた。 勝った! 大惨事完ッ! キャムがくぅくぅと寝息を立てているのを聞いて、僕は床に腰を下ろした。 しばらく僕は動かなかった。キャムが心配だから? とんでもない。 腰が抜けて動けなかったのだ。 「……あんたら、わけ、わかんねぇな」 手を止めたままのマスターが小さくつぶやいた。 |