「こぉりゃぁー、朝じゃぞー!」 夜の体毛収穫はいつの間にか終わっていたらしい。 山盛りになったモンスターウールの中で眠りこけていた二人に、ダライの怒号が浴びせかけられる。 水平線の向こうには太陽がまだ顔を出したばかりである。牧場の朝は早いのだった。 「ったくよぉ、起こしてくれたんだいいじゃねーか」 「仕方ないだろ、俺だって忙しかったんだ」 昨日の夜、作業を途中で放り出して眠っていたグランには、ダライから通常の三倍の労働が与えられていた。 等倍だとしてもそこそこにきつかったが、すぐ隣にいる人間が三倍の量をこなすことを想像すると、心なしか軽いように思えるものだ。 「グラン先生〜、手伝ってやろうか〜?」 「報酬は取り分の三割でいいぜ? 三万ゴールドだ、悪い話じゃないだろ?」 「断る! お前にはビタ一文よこさねえ!」 早々にこなし終えたリブレが、グランに茶化すように交渉を持ちかけるが、 目まぐるしく作業に追い立てられているグランには雑音でしかなかった。 やれやれ、とリブレが肩をすくめると、いつの間にかダライがいなくなっていることに気づいた。 「あれ? じいさんいなくなってる」 「何!? この場で襲われたら、一体誰が回復すんだよ!?」 「そうならないように真面目に仕事しろってことじゃないの?」 「あの鬼ジジイ、いつか殺す!」 その前に死なないようにな、と心の中で呟きつつ、リブレはダライを探しに牧場の外へと出た。 ダライはすぐに見つかった。この島に着いた時に降り立った岸壁の上にいたのだ。 「じいさん、俺はいいんだけどさ……グランは放っておいたら死んじゃうかもしれないから、できれば戻ってくれるとありがたいかな、なんて」 「案ずるな、あの畜舎には妖精族が居る。多少やりかたは荒っぽいが、死にはしないじゃろう」 そう言ってダライはその場を動こうとしなかった。 既に太陽は日の出を越えて、その輪郭は水平線を脱している。 しばらくその光景を共に見ていると、薄もや掛かった空の向こうから何かが飛んでくるのが見えた。 「来たか……」 「げっ!?」 太陽を背に現れたのは、その光を全て吸収してなおあまりある――漆黒の体を持った、禍々しいブラックドラゴンだった。 それも単体ではなく、複数の影が見えている。 それらの下にはさらに大きい何かが釣られており、あくまでブラックドラゴンは下の何かを運ぶために遣わされたのだと認識する。 「テュキュィリリリリ……」 間近で見るブラックドラゴンはそれだけで小便をちびりそうなくらい迫力があった。 つんざくような鳴き声も耳に入らない。その姿は、人間であればただ畏怖を覚えるしかない、と思うくらいに。 しかし、そのブラックドラゴンすら遣いとし、運んできた何かとは、何なのだろうか? リブレは気になって、岸壁から崖下を覗き込もうとした。 「バカモノ、そいつを見てはいかん!」 「!」 咄嗟にダライに足をつかまれ、崖のへさきから引き上げられる。 しかしリブレは一瞬だけ見てしまった。巨大なピンク色の塊が、微細に動くその様を。 「あれは、何だ」 「……おヌシに説明するには、まだ早いわい」 「さ、メシにしよう。安心せい、次はモンスターじゃない普通の食材を使うからの」 後ろ髪を引かれる思いがしつつも、リブレはあの崖下に居る何かは、本能的に見てはいけないものなのだということは分かっていた。 もともとモンスターについては、臆病なほどに勘が働く。その勘が警告するのだ。 アレは見てはいけないものなのだと。 「ごっそさん」 「ごち、そうさま……うぐふ」 「おヌシら、よう働いてくれた。ご苦労さん」 昼メシを食い終わった後、ダライからねぎらいの言葉をかけられる。 しかし二人はそんなことより、報酬のことと、ちゃんと帰してもらえるのかが気がかりでならなかった。 「もう、契約期間は終わってるよな」 「ああ」 「それじゃー、じいさん、早速だけど……」 「約束の報酬をよこしてもらおうか」 ズイ、とグランが身を乗り出して殺気走った目で訴えかける。 岸壁での会話の後にグランの様子を見ると、半狂乱で仕事で打ち込んでいた。 恐らくは妖精族が間違えて狂化魔法でもかけてしまったのだろう。 だが、そのおかげでノルマは達成できたらしく、心中複雑であるとは本人の談だ。 「それなんじゃがな」 ダライの目が妖しく光る。 途端、二人の体はガクンと力を失い、まともに意識を保っていられないほどに衰弱させられた。 「なん……だと……」 「ジジイ……てめぇ……」 「金は出す。出すが……今回、まだその時と場所の指定まではしていない」 「つまり、わしがその気になれば金の受け渡しは、10年後、20年後ということも可能だろうということ、じゃ」 悪びれない様子でダライは語り続ける。 「そうさなあ、ヌシらが自力でこの島に辿りつくようなことがあれば……」 「約束してやろう。その時は、その場で満額払ってやる」 その言葉を最後にぐらり、と大きな眩暈がして、二人の意識は黒々とした渦の中へと落ちていった。 「……んあ?」 グランが目覚めるとそこは、酒場「ルーザーズキッチン」の前だった。リブレも隣でいびきをかいている。 とりあえず現状を確認しようと、手始めにリブレを叩いて起こしてみた。 「痛って!」 「痛かったか? よし、どうやら夢じゃないようだな」 「そんなことは自分の体で試せ! ……ん? 何だ、その本」 「あ?」 目覚めた時には気づかなかったが、グランの左手は一冊の古ぼけた書物を握っていた。 その本の表紙部分には、一枚の紙が挟んであった。 「何か書いてあるな……えーと」 『いやはや、急な話で申し訳なかった! 本当は支払える金がなくてノリであんなことを言ったんじゃ! なもんで、心ばかりながら、わしから秘蔵のコレクションを担保としておヌシらに預けておくことにした。 剣士のリブレ君には妖精のブローチ、グラン君には『炎術理論』の原書を渡しておく。 これだけじゃなんじゃろうから、わずかながら一万ゴールドもつけておこう。これで酒でも飲んでくれぃ。 もちろん、言ったとおり、自力でエーリルの島に来ることがあれば、担保と引き替えにゴールドも渡す。 それでは、また会える日を楽しみにしておるぞ! byダライのじじいより』 「これが『炎術理論』の原書だって? どれどれ……」 「どうだ、何か分かるか?」 リブレはいつのまにか自分のポケットに見慣れない綺麗なブローチが入っていることを確認した後、 それを手でもてあそびながら、グランの広げた本を覗き込む。 「……だめだ、全然読めねえ。これ古代文字で書かれてないか?」 「さあ、俺に聞かれてもな。とりあえず飲もうぜ。どうやらあの仕事は夢じゃないみたいだし」 リブレのカバンに入っていた一万ゴールドを掲げて提案する。 二人は大きく息を吐くと、酒場の中へと姿を消した。 「それにしても、不思議なジジイだったな」 「ああ、まったくだ。俺の目から見ても相当な魔術師に見えたけど、グラン先生から見て、結局魔術師としてはどんなもんなのよ?」 「分からねえよ……全然検討がつかねえ、とりあえず言うとレベルが違うってレベルじゃねーぞ、ありゃあ」 「はっは、何だそりゃ」 日が傾き、酒場の賑わいはいよいよ高まっていく。 至るところで叫び声や、何が悲しいのか悲嘆に暮れる泣き声、中には楽器を取り出して即興で演奏するものも現れる始末だった。 そんな喧騒の中、一人の身なりのいい商人らしき中年が入ってくる。 「マスター、シュレディンガー!ジョッキで」 「……」 ごと、と店長オリジナルの蒸留酒――この店で最も強いとされる酒が商人の前に置かれた。 彼がジョッキに口をつけると……ングッ、ングッとみるみるうちに中身が減っていく。 そしてそれは、中身が空になるまで続けられた。 「ぷはぁっ」 「ひゅーっ、いい飲みっぷりだね、アンタ! 気に入ったぜ!」 「あ、いやはは、こりゃどうも」 ジョッキを一気飲みしたと言うのに、まるで顔色一つ変えない商人に対して何か感じ入るものがあったのか、 リブレは初対面だと言うのに心からの賛辞を送った。 グランも席が近ければ同じことをやっていたかもしれないが、リブレを挟んだ位置に商人は居たため、 持ち前の冷静さが邪魔をして少し絡みづらかった。 「マスター! この人にもう一杯! おごるぜ!」 「あ、これはどうも……いやはや、では遠慮なく」 二杯目を注がれると、正に怒涛の勢いでそれを流し込む商人。 リブレはそれを見てますます機嫌が良くなったらしく、もう一杯頼もうとした。 しかしマスターは渋い顔で勘定を突きつける。既に当初の予算はジョッキを一杯頼んだ時点で軽くオーバーしており、 手持ちの金ではとても二杯目を頼める状況じゃないことを、グランもまた渋い顔で受け止めた。 そんなグランを尻目に、リブレはポケットからブローチを取り出して叫ぶ。 「らいじょうぶ、らいじょ〜ぶ! このブローチ売れば、もうちょっとまだ行けるって、余裕!」 「ちょ、ちょっとそのブローチ! 見せてくれませんか!」 リブレが振り回し始めたブローチを両手で必死に押さえ、商人は仕事の顔でブローチの見つめ始めた。 ひっくり返したりまわしたり、光にかざしたりしたかと思うと、おもむろにハンマーを取り出して強くブローチに向けて振り下ろした。 「ふんっ!」 「ちょ、俺のブローチ! 何すんだ!」 「やっぱり……」 しかしハンマーの下では、ブローチは砕けるどころか、まったく傷一つつかずにそのままの形を保っている。 そのことを確認した商人は、納得したような顔で、一つ酒臭い溜め息を吐いた。 「これは……本物の妖精のブローチのようですね」 「そうだ! あのじいさんから貰った、正当な労働代価だ! 何か文句あるか!」 「もしよろしければお譲りいただきたいのですが。もちろんお値段は勉強させていただきますよ」 「ん〜〜? どうしよっかなあ〜〜?」 ふらふらなまま商人の交渉に答えるリブレ。その様子を見てほくそ笑んだ商人は、目一杯足元を見た価格を提示する。 「このくらいでいかがでしょう」 「ん〜? いち……じゅう……ひゃく……せん……」 「リブレ、もう一つゼロがあるぞ」 「んで、一番上が五ってことは……五万ゴールド!?」 提示されたブローチの価格を再度認識すると、リブレの酔いが少し醒めた。 確かに綺麗なブローチだとは思っていたが、これほどの値が付くとは。 ……しかし、商人とは最初は足元を見るもの。そこでリブレは、あえて焦らして値を釣り上げてみようとした。 「……はっはっは、ご冗談はよしてくれよ商人さん。これは正真正銘、本物の妖精のブローチだぜ」 「だったら、さぁ……分かるよな? どれだけの値打ちもんなのかって」 「むむむ……そうですね、私も本当にこの価格で落とせるなんて思っていませんでした」 「でしたら、コイツでどうでしょう!」 再度提示された額を見る。そこには七万五千ゴールドと記されていた。 元値からすると五割増しである……リブレは迷ったが、五割増しということは、まだ余力を残しているに違いない。 ここで商人が引き下がるようなことがあっては、あるいは売るチャンスを逃すということになるかもしれない。 しかし、あえてここで賭けに出ることにした。 「……もう一声だ!」 「分かりました! これ以上は私も出せません! 八万ゴールドでどうでしょう!」 「うおおおおおっ」 予想外の値段の釣りあがりに、成り行きを見守っていたグランや他の客が異様な盛り上がりを見せた。 リブレはここらが潮時だと思った。 「よし、売った!」 「ありがとうございます!」 商人は晴れやかな顔となり、リブレに頭を下げた。そしてカバンからいくつもの紙幣を取り出した。 「ささ、取引は迅速に。現金一括でお支払いいたしますよ」 「ああ」 リブレはブローチを右手に乗せ、商人の左手に乗せようとした。 そして左手は商人の右手から紙幣を受け取ろうとしている。 まさに取引が成立する瞬間――リブレの頭の中に、何故かダライの背中を思い浮かんだ。 『……おヌシに説明するには、まだ早いわい』 ブラックドラゴンを背に、そしてあの形容し難い『魔』を前にして苦々しく口走ったセリフ。 『でも、わしはもうこういう生き方しかできんのでな。仕方のないことなんじゃ』 羊っぽいモンスターの体毛を剃りながら淡々と放った、後悔の滲んだセリフ。 『そうさなあ、ヌシらが自力でこの島に辿りつくようなことがあれば……約束してやろう。その時は、その場で満額払ってやる』 意識が落ちる前、あくまで挑戦的に――そしてどこか期待するように言い放ったセリフ。 それらを思い出すと、何故かリブレの右手が止まった。 無意識に手が止まったことに一瞬疑問を抱いたが、次第にそれが悔しさから募るものだということを、リブレは自覚し始めた。 「……どうしたんです?」 「……悪い、やっぱりこの取引、ナシにしてくれ」 「ええーっ」 「うおおおおっ」 「Boo! Boo!」 酒場は再び喧騒に包まれた。一旦成立したはずの取引を反故にしたからか、 それとも、あのリブレが大金を目の前にしてブローチを惜しんだことがよほど意外だったのか。 半ば音の洪水とも言えるようなやかましさが酒場中を包んだ。 「本気、なんですね?」 「すまん。俺はいつか、このブローチを十万ゴールドにするんでね」 「八万ゴールドじゃ売れないんだ」 「リブレ……お前……」 グランは力が抜けたようなような複雑な表情を浮かべていた。 その理由は二つほど思いつく。一つは、折角の八万ゴールドの取引をフイにしたこと。 もう一つは、ブローチをダライに返すということは……いずれあの島へと自力で向かう気があるということ。 前者はともかく、後者は途方も無い願いだと、グランは何となくではあるが確信があった。 「分かりました。そこまでの意志がおありなのでしたら、私は手を引きます」 「ああ、すっごくもったいない話だと思うけどな」 「……おかげで今日はうまい酒が飲めたよ。機会があったら、いずれまた会おうぜ」 「はい。あなたの冒険の成功を、心からお祈りします」 「ちょ、ちょっと待った!」 酒場から出て行こうとするリブレを引き止めながら、グランは商人に詰め寄る。 「なあ、この本なんだけど……『炎術理論』の原書らしいんだが」 「これならいくらくらいの値が付くんだ?」 「これですか……ふぅむ……」 商人はパラパラと読みあさるが、終始首を傾げながらページの終端までたどり着いた。 そして発した一言は、 「私には判断しかねますね。 あるいは歴史的価値はあるのでしょうが、少なくとも私には値は付けられません」 「それってつまり」 「はい、ノーマネーでフィニッシュです」 ニッコリと笑顔で商人が言い切ると、 ガーンと打ちひしがれたような効果音と共に、グランはリブレに引きずられながら酒場を後にした。 そして夜も更け、一人、また一人と客がひけていき……閉店間際、今だにこの店に残っていた商人は変身を解いた。 「……」 「……ふぉっふぉっ、愉快じゃわい」 酒場のマスターが瞬きをすると、刹那のうちに商人は薄緑のローブを目深に被った老人に変わった。 マスターは色々と言いたいことがあったが、一方的な質問は不粋だ。 まずは、老人の語るままに。その会話から引き出せるままに引き出すのが、自分の立ち位置としては相応だろう。 「あの二人、中々見所があるわい……特に、リブレっちゅう若者は、期待できる」 「毎日、くだらないクエストをやりながら、その日暮らしで生きてるようなヤツですけどね」 「ふん、人の一生ちゅうもんはの、その子々孫々、脈々と影響を及ぼすところにこそ意味があるんじゃ」 「例えその人が生きているうちに花を咲かすことはなくとも――ですか」 「そう。報われない生を受けて、死の後々に祝福を受けることもある」 「もっとも、わしはその逆だがな」 「その割には、随分と奮発なさったものですね」 「いやー……ああいう若いうちって、価値のある現物より、価値そのものの金の方が欲しいじゃろ?」 「でも、まさかアゴーニャ帝国の金庫が底を付いてたなんて思わんかった」 「だから、少しでも価値をあるものをと思って、預けておいたのじゃがな」 商人の姿をしている時にはあのようなことを言ったが、 本当はリブレとグラン、両方に渡したモノには十万ゴールド以上の価値がある。 妖精のブローチは、この世界のあらゆる干渉をシャットアウトする物質で出来ていることから、所によっては百万ゴールドを超える値打ちものであり、 『炎術理論』は完全に理解することができれば、それこそ絶大な力を持つことのできる、世界に唯一の禁書だ。 「アゴーニャ帝国……やはり、あなたは」 「そう。アンタなら、依頼を出した時に気づいたと思うがね……何せ、この酒は」 グビリ、と一口飲んで、さらに言葉を続ける。 「ばぁっ……今はもう滅んだ、アゴーニャの酒だからな」 数千年も昔のことである。世界は未だに群雄割拠……それに加えて、モンスターも現在とは比べ物にならないくらい強大だった時代のことだ。 野は引き裂かれ、地は兵士やモンスターの血にまみれ、力を持たぬ民はひたすら嘆いていた最中、 アゴーニャと名付けられている帝国が世界を席巻せんと台頭した歴史が存在する。 かの国は当初、猫の額ほどの国土しか持っておらず、誰もが『いずれ滅ぶのは明白』と評していた。 しかし、当時の国王はある秘法を使い……それまで誰もが成し得なかったモンスターの軍隊、『魔軍』の錬成を可能にし、 破竹の勢いで近隣諸国を併呑して一大強国へとのし上がった。曰く、当時の国王の名は……その暴虐と畏怖の念を込めて、こう呼ばれていた。 「……魔王、ダライ・パサルマーヴェ」 「ふ、よしとくれ、そんな昔の名前で呼ぶのは」 「今はただのしがない、モンスターじいさんのダライじゃよ」 今夜はここまで、とばかりに勘定をカウンターに置いて、ダライは酒場を後にする。 酒場のカウンターをくぐった途端、消え失せるようにいなくなった。 ……彼が、何の意図があってこの酒場を訪れたかは分からない。 だが彼のように、悠久の時を生きている存在が起こす行動には、必ず意味がある。 いずれまた、魔王としてこの世を混沌に叩き込むのか……それとも、何か別の目的があるのか。 元より人の身であるこの私には、知る由も無かった。 |