「ん、うーん……あれ?」 リノ・リマナブランデの寝ぼけ眼に飛び込んできたのは、見慣れない天蓋だった。 肌に触れる布団は、家のベッドのものよりもしっとりとした質感を持っており、さほど寝具に詳しくないリノでもおおよそ高級なものであることが伺える。 上体を起こして辺りを見回すと、暗いレンガ造りの部屋の中、ざっくりと切り開かれた窓から一条の月光が差し込んでおり、廊下へと続く正面の入口からは闇ばかりが広がる空間であることが分かった。 「何だか、寂しいところね」 呟いた一言はひとしきり残響し、そして静寂に吸い込まれていった。 それにしても、なぜ自分はこんなところで眠っていたのだろうか。 部屋の印象から察するところ、どこかの古城の中か、はたまた朽ちた神殿の中か……まさか、酔っ払った挙句に行き着いた先でそのまま眠りこけた? いや、昨晩は一滴もお酒を飲んでないし、ちゃんと日記を書いて眠りについた記憶がある。 とりあえず少し歩いてみよう、と思って床に足をつけた途端、暗がりから何かが迫ってくるような足音が聞こえてきた。それも一つではなく、複数。 急きたてるように大きくなるそれらに戦慄を覚えたリノは、咄嗟に寝台の中へ戻って布団で身を隠した。 できるだけ姿勢を低くとり、布団から合間を縫って、足音のする方向の暗がりにじっと目を凝らす。 ほどなくして現れたのは、三人の人影―― 「グラン、リブレ……いつもの凸凹コンビと、アイちゃんか」 彼らはリノがよく知る者たちだった。 体からフッと緊張が抜け、弛緩した身体から衣擦れの音が立つ。 それに気づいた三人は咄嗟にこちらに顔を向け、張り詰めた表情で手を伸ばしてきた。 だがリノとて、見知った者に怖じ気づくほど小心ではない。 むしろここぞとばかりに驚かせてやろうとさえ思い始めていた。 状況は未だにつかめていないが、だからこそ普段どおりの心持ちに努めようとしたのかもしれない。 「わーっ!」 声を張り上げると共に布団を盛大にめくり上げる。 しかし、リノの姿を目の当たりにした三人には大して驚いた様子はなく、先ほどよりも冷めた様子でリノを見据えている。 リブレの顔には少なからず狼狽の色が見えたが、それが単純な驚きから生じたものでないことは明白だった。 「ようやく見つけたぜ、リノ……いや、魔王リマナブランデ」 「なんですって?」 グランの口から、普段では絶対に耳に出来ないような大真面目なセリフがこぼれた。 言い訳やごまかしのための弁舌を振るう彼はそこそこ目にしているものの、今のリノに対してそれが行われる理由は思い当たらず、いや、そもそも自分を『魔王』呼ばわりする時点で何かが決定的にズレている。 ……この私が魔王? 冗談も顔だけにしときなさい、とお決まりの文句を言おうとした瞬間、沈黙を守っていたアイがランスの切っ先をリノの喉元に突きつけてきた。 触れてはいないものの、無言の圧力は嫌が応にも冷たい感触を味わわせる。 それなりに長い付き合いがあってこそ理解する。この女は本気だ。 リノは現状に対しての認識を新たにし、慎重に言葉を選んだ。 「女の寝床に殴りこんできて無粋もいいところだけど……少し、いいかしら」 「命乞いか? まあいい。なんだ、言ってみろ」 「ここ数日、私の記憶が無いの。だから、こんな風にランスを突きつけられる理由も分からないし、魔王呼ばわりされる謂れにも思い当たらないわ」 ずいぶん冷静なものだ、と自分でも驚く。 異常なシチュエーションにも関わらずそれなりに雄弁足りえるのは、やはり、相手が見知った人間だからだろうか。 しかし反応は芳しくなく、グランは鼻で笑い、リブレとアイは敵意を隠そうともせずに歯噛みした。 「本気で言ってるんなら、今すぐ燃やすぞ」 「本当よ。信じてもらえないかもしれないけど、目覚めたらこのベッドの中だったの。最後に残ってる記憶じゃ、ちゃんと家で寝付いたはずなのによ?」 「家。家ねぇ。ちなみにその家って、どこだったっけ?」 「知ってのとおりよ。王都マグン、サン・ストリート沿いの……」 その続きを口にしようとした瞬間、もういい、とばかりにグランが手を振りかざした。 リノの唇が止まる。どうやら詠唱潰しの魔法を唱えられたらしい。 グランの仕業らしいが、この男にそんな器用な真似ができたか、と一抹の違和感が残った。 「やれやれ、まさかとは思ってたがここまでとはな。おいリブレ、どうする」 「決まってるだろ。今日こそ魔王を倒して、世界に平和を――そして、マグンの皆の仇をとる」 言い切った瞬間、リブレは電光石火の如くリノに斬りかかった。 リブレの戦闘時における決断力、そして思い込みの激しさについて、リノは理解していたつもりでいた。 その矛先が、例えどんなに馬鹿げたジョークや妄想であっても、攻勢、逃亡に関係なく火を点ける。 それが彼の短所であり長所でもある。故に、この一撃に一切の迷いは無かった。 リノは咄嗟に反応して身をよじったものの、アイの構えていたランスにより動ける方向が限られていたせいで、素早く後ずさるような体勢にならざるを得なかった。 そして、今の後退によって壁際に追い詰められたことを同時に理解する。 ひんやりとした夜風が頬を撫で、肝まで凍えそうな感触に思わず汗が滲んだ。 「よーし、ナイスだ。まさか避けられるとは思わなかったが、自ら追い込まれてくれるってんなら好都合」 他の二人に比べて幾分か口調の軽いグランだったが、それでも言葉の端々に感じる剣呑さは拭えない。 ジリ、と若干アイが部屋の入口側へと下がった。それを合図に、グランのクロスした腕へと魔力≠ェ集束していく。 この調子だと、リノが知っているグランのキャパシティをゆうに超える魔力量が集まり、暴発してしまう。 だがグランは依然として表情を変えない。それは知らぬ間の修練によるものなのか、それとも覚悟の表れなのか。 いずれにしろ、もはやリノに残された選択肢はそれほど多くない。 少なくとも話し合いで何とかなるレベルではないことを悟った。 ならば、自分の実力においてこの窮地を突破するのみ。決断したリノは理力≠練ろうとしたところで、はたと気づく。 愛用の杖は手元に無く、肌身離さず持っていたはずの理力の素たる種もポケットから失われている。 素手であってもごく簡単な術は放てるが、この状況においては焼け石に水と言うものだろう。 今更ながら、現状の確認を怠ったことにリノは後悔した。 (ま、どうしようもないって分かったところで、それこそどうしようもないんだけどね) それでも後悔を認めたことで緊張の質が変わったことを感じ、リノは改めて後ろの壁の感触を確かめた。 万が一、グランの魔法を避けることが出来て、後ろの壁に当たり……壁が崩れて外へと通じる道が出来たなら、この場からの脱出はかなうかもしれない。 直撃は言うに及ばず、かすっただけでも無事で済むかどうかも怪しいが、グランの魔法発動まであまり時間が残されてないであろう今、それに賭けるほかは無かった。 などと思いながら壁の脆い部分を探っていると、リノの指先に壁とは違う硬い感触が返ってきた。 視線をグランに向けたまま、その硬い感触に指を這わせる。 触れるだけで強い力の奔流を感じる棒状の何か……これは、もしかして杖だろうか。 リノは瞬時に頭を切り替え、回避策から防御策へと転じた。 唇が動くことを確認して、なりふり構わず杖らしきものを掴み、水平に構えて理力≠フ集中を始める。 決して防御が正解だと確信しているわけではないが、それでも回避するよりはいくらかマシに思えたからだ。 それに、手にしているこの杖からは、グランに集まりつつある魔力≠超えてなお圧倒するスピードで理力≠ェ集束しつつある。 リノが防御策への信頼を抱くのは無理からぬことであった。 「ハッ、遅ぇ! くらえ『燦星掌』!」 グランの腕が勢い良く解かれる。カッ、と一瞬の音無き音の後、まるで落ちた太陽がこの身を貫いたが如く、眩しく熱い世界へと叩き込まれた。 だが、その中においてもリノは杖を水平に構える自身を見失うことはなかった。 むしろこの輝きに、ヒーラーとしての洗礼を受けた在りし日の記憶が甦る。 (あぁ……あの時もこんな風に綺麗だって思ったんだっけ) ヒーラーになった理由は正直そんなに覚えてない。 ロクでもない思いつきからいいかげんに決めてしまったようにも思える。 でも、聖堂にて神の洗礼を受けた瞬間、垣間見た奇跡の赦しに――至上の愛を見たあの瞬間だけは脳髄に焼き付いていた。 あの日、私は人生の中で最も『正しい』選択をしたのだと、心からそう思った。 それからの日々については迷いの連続だった。 ある程度は努力も研鑽も積み重ねてきたけど、それらを何のために活かしてきたのかまでは語るに値しない。 気が付けば、馴染みの仲間たちと共にクエストを重ね、たまの贅沢をして気を紛らわせる、基本的にはその日暮らしで生きている自分がいた。 ただ、誰に責められるでもないし、自分とて特に不満は抱いていなかった。 だから、余計に分からなかった。 何故自分が魔王とまで呼ばれ、挙句かつての仲間たちに殺されかけるほどの仕打ちを受けなければならないのか。 「なん……だと……」 グランの呟きを拾い、しばらく後に視界が戻った。 知らぬ間に浮遊魔法が掛かっていること以外、ひとまず自身が無事であることをリノは確認する。 グランの放った魔法は、確かに強大な魔力≠以って放たれたのだろう。 その証拠にグランの両腕は焼ききれており、いつもの金髪は色を失って真っ白になっている。 後ろの壁は切り抜かれたかのようになくなっており、さっきまでリノが立っていたベッドは床ごと消失して奈落と化していた。 ただ、リノだけが五体満足に――夜空を背にして浮かぶその姿を認め、リブレは戦意を喪失した。 「グラン!」 抜け殻のようになったグランは膝を付き、自らが作った墓穴を覗き込む。 否、身体を預ける先の床が無かっただけのことであり、そして、その身が落下するのは当然のことだった。 それに気づいたアイはランスを床に放り、グランのローブを掴まんと手を伸ばす。 だが伸ばした手は布の破れる音を奏で、あとは空を切るでもなく、漂わす程度がアイにとって精一杯だった。 その一連の所作を見て、なおリノは冷静に現状を把握しようとした。 確かに目の前で人が死に、それが見知った相手ならなおさら動揺を誘おうものだろう。 しかし、それと同時についさっき殺意を込めた魔法をぶつけてきた相手でもあり、そして、未だに戦闘態勢を脱してはいないと頭の片隅が警報を鳴らしていたため、情に訴えるより先に体を動かすべく判断を欲した。 『敵はまだ残っている』 この事実を受け入れるか否かで逡巡したが、現状においては『どちらが先にそれを受け入れるか』で勝敗が決まる。 そう断じたリノはアイに気づかれないよう回り込み、床に放られていたランスを奈落に向けて蹴り飛ばした。 一度だけバウンドしたランスは大きな音を立て、それをキッカケにアイはリノが部屋の後ろに回ったことに気づいたが、ランスが失われたことにまで気が回ることはなかった。 「ねぇ、アイちゃん。そろそろ教えて欲しいんだけど」 「……あんたに話すことなんてないよ、リノ」 ゆらりと体を起こし、リノを見据えたアイの目は赤く血走っていた。 その迫力に思わずたじろいだが、相手はもはや素手。 得物の無いランサーなど平民よりはやや腕の立つあらくれ程度でしかない。 それに、今の私にはこの杖がある。 部屋の隅でガタガタ震えてるリブレを勘定に入れてもなお、圧倒的な力の差があるのは明白だった。 「そうね。それが本気だってことは、まあ、グランのあの一撃でイヤってほど分かったつもり。でも、こっちも本気よ。ワケも分からないうちに殺しあって、それで生き延びたとして、納得できないまま後悔したくないわ」 「あんたが後悔しようが、あたしには関係ない」 「そっちに選択権は無いの。お願い、私にこれ以上人殺しをさせないで」 アイに向けて杖を突きつけるリノ。 攻撃用の術なんて理力≠叩きつけるぐらいしか知らなかったが、この杖自体にどうやら魔術師寄りの上位魔法のスクロールが刻まれているらしく、理論を知らずとも容易に発動できる状態にあった。 そんな得体の知れない杖の力に酔いしれつつある最中、一方的な命のやりとりで交渉をせがむなどとは、やはり狂いを催さずにはいられないのかと、思わずリノは股間に湿り気を感じた。 「……そうだねぇ。そんなに聞きたいってんなら――」 アイは観念した風に諦め、腰を下ろした。 右手に掴んでいたローブの切れ端をひとしきり見つめた後、視線を落として語り始める。 二年前、魔王軍による大規模な侵略が世界各地で始まったこと。 マグンへの侵攻が行われる数週間前、リノ・リマナブランデは地元の冒険者たちを集め、 クエストの名目でマグン防衛線の弱体化工作を行い、魔王軍の侵攻を大いに円滑たらしめたこと。 弱体化工作の責任をリブレ・ロッシ、グラン・グレン、アイ・エマンドの三人になすりつけ、 人間としての自身は行方をくらまし、魔都マグンを支配する魔王として姿を現したこと。 ……リノは次々に語られる、まるで現実味の無い世界の歴史に呆然とした。 「要するに、あんたは故郷を売った裏切り者ってことさ。ものすごく計画的にね!」 その一瞬の隙を突き、アイはリノに飛び掛かった。 あまりの唐突さに杖を床に取り落とし、押し倒され、首を絞める体勢へと持ち込まれる。 「何が人殺しをさせないで、よ。もう立派な人殺しじゃないの。一体どれだけの人がやられたと思ってんのさ!」 「はぁっ……ぐっ……」 「ねえ、なんでさっきので死ななかったの? グランが一生懸命作った最強の魔法だったのに、何で死なないの? あたしはさ、リノのことどうしても憎みきれなかったの。多分リブレも同じ。 だからリノのこと殺せるの、多分あたしらの中じゃグランだけだって分かってた。グランになら、って信じてここまで来たのに……どうしてよ、どうしてこうなるのよ! グランを返してよ、みんなを返してよ!」 リノの首に掛かった手に力がこもる。 このまま時が過ぎれば間違いなく首の骨が折れるか窒息するかのどちらかだろう。 何とか杖に手を伸ばそうとするが、それも届かない。リノは意識が遠のくのを感じた。 「や、やめろーっ!」 ドン、と横薙ぎの衝撃を感じるとともに、首への圧迫感が離れた。 ここぞとばかりに新鮮な空気を取り込む。そして杖の確保を優先すべく、視界の眩めきを気合で押さえこんだ。 ほどなくして戻った視界にてリノは杖に食らいつき、二度と離すものかと両手でギュッと握る。 改めて周りを見回すと、突き飛ばされたアイはリブレにのしかかられた状態で伸びていた。 まさか、リブレがアイを突き飛ばしたのだろうか。 ……解せない。確かに様子がおかしいとは思っていたけど、自分に最初に斬りかかってきたのは彼のはずだ。 首を絞めている隙にとどめを刺すのであればまだ理解できようものだが、助けられる理由はまるで無い。 ひたすらに不可解だったが、これでひとまずの危機は去ったと言えるだろう。 だが、だからといって彼らを放ったまま部屋を出ようとは思えなかった。 後から追いかけてきて、次に不意を突かれた時も無事に済むかは分からないし、 できることなら命を奪うことなくここから出て行ってほしかった。 過去の所業からすれば偽善もいいところなのだろうけど、 それでも後顧の憂いを断つためにここでリブレとアイを殺しておく、なんて選択をとることはリノには到底できなかった。 「起きなさいよ。あんた、気絶してるってわけじゃないでしょ」 リノの声にぴくりと反応したリブレは、されど相変わらず壁に顔を向けてガタガタと震えている。 ちらりと見せた横顔は、まさしく蛇に睨まれた蛙のそれだった。 しかし、リノからすれば仮にも命の恩人である。 礼を言いたいわけではないが、少なくとも竦ませたり邪険に扱う気は無かった。 「じゃあ、そのままでいいから聞いて。どうして助けてくれたの?」 できるだけ険を含まない声色で喋ってみる。 すると、少しずつではあるが、ポツポツとリブレの口から呟きが漏れた。 「……だ、だってさ。仮にも『魔王』ってヤツが、首を絞めるだけで、倒せると思うか? 誰だって思わねえよ、お、俺だって思わない。 仮に死んだように見せかけても、きっと後で復活とか何とかして、俺たちを追ってくると思ったんだ。そう考えたらさ、居ても立ってもいられなくなって、それで」 「それで?」 「す、少しでも恩を売っておけば、何もやらないよりゃマシだって、思ったんだよっ! う、うぅっ!」 「……ぷっ。はは、あははははは!」 何て小心、何という小賢しさ。そうだったのだ。 リブレ・ロッシという男は、いつだって予想の斜め上を行くほどの小心者だ。 そのくせ勇者になるなどという不釣合いな夢を持ち、一時の思い込みで尊大にも卑屈にもなる度し難い勘違い男。 対等に付き合う分には煩わしさが付きまとうだろうが、もし屈服させた上で『観察』する分には――実によく出来た玩具となるのではないか。 ぞくり、とリノの背筋に甘い疼きが走る。 ある種淫靡とも言えるその高揚は、ともすれば手にした杖から流れていたのかもしれない。 だがそんなことは今のリノには関係無かった。それどころか積極的に身を任せ、己が精神を黒き淵へと浸していく。 (ああ、なるほど……私が魔王だっていうのは、案外デタラメってわけじゃないのかもね) 魔に魅入られ、滾る欲望を心に燃え上がらせた今になって思う。 結局、私という人間は如何に自我を守ろうと努力しても、取り巻く環境やその場の都合でどのようにも変化し、その都度に正しさがどうとか、何が間違いなのかを考えないように切り捨てて生きてきたのだ。 小心はともかくとして、小賢しさで言えば、リブレのことを笑うことはできないだろう。 だが私は彼のように夢を持つことはなく、むしろ漠然とした夢を持つぐらいならば切り捨てるが肝要と心得たが故に、果てにはこのような結末が待つのだろうと理解した。 そして、それを理解してなお、私は『それで良い』のだと自覚している。 そんな存在が悪でもなく魔でもないとするならば何なのだろう。少なくとも人間だとは到底思えない。 (でも、魔王って程じゃないわ) それもまた事実だった。王と呼ぶからには魔を束ねる存在でなければならない。 しかし、リノの裡に有るのは自己倒錯による欲望の塊でしかなく、世界に巣食いたる闇を喰らうほどには熟してはいないだろう。 この状況に至るまでの記憶があればまだ話は違ったのかもしれないが、その『足りなさ』すら今のリノにとっては余興に過ぎなかった。 切り抜かれた部屋から望む夜空へと両手を広げる。 いつか魔の至りへと到達せんと、月へ昇らじと言わんばかりに―― 「……はっ!?」 気が付くと家のベッドだった。 上体を起こし、両手をバカみたく広げた状態で目覚めたらしい。 「…………」 誰に見られたわけでもない。 しかし、夢の中での振舞いを思い起こすほどに、気恥ずかしさが全身を駆け巡った。 「〜〜〜っ!」 ゴロゴロゴロ、ドスン、パスン。 枕の中に顔を埋め、布団の中で身をよじる。 そしてひとしきり気恥ずかしさを発散させた後、どっと安堵感に包まれた。 「……それにしても、随分壮絶な夢だったわ」 よくよく考えれば、展開の最初から既にありえないことが起きていたというのに、それを疑うことなく流されるままに夢を見続けていたように思う。 まあ、そもそも夢なんてそんなものだが……リアルで無いにしろ、どこか割り切れずにいるところがあった。 しかしそれに答えを出すより、寝汗でぐっしょりと濡れた身体をどうにかするのが先決だ。 ベッドから降りてドアへと向かう、その途中。 「……?」 チリン、チリリリン…… どこからともなく小さな鈴の音が聞こえた。 余韻を追うと、ドアの脇、自分用に設えた机の下辺りに辿りつく。 そこには猫の毛のようなものが散らばっていた。 「猫の毛と、あの夢……まさか、Abyssinian?」 尋常ならざる事態を感じ取ったリノは寝巻きをかなぐり捨て、ドアの向こうへと姿を消した。 誰もいなくなった部屋の中で、猫はひとたび鳴いた。 |