Usual Quest
ユージュアル・クエスト

番外編「エマ、笑う」後編

「それぞれの名前と、職業を」
医者が看護士に患者の処置を継げるような口調で、タダン氏は訊いた。
「俺から、ね。……グラン・グレン。炎系魔術師」
「はい、次」
タダン氏が抑揚のない声で訊ねた。
「剣士の、リブレ・ロッシ。知ってるんなら訊くんじゃねぇよ」
「……はい、次」
リブレさんが隣の僕を見た。
「……エマ・ティンカーです。具体的な職は……ありません」
また説明をしなければいけないのだろうか。
僕の不安をよそに、タダン氏は同じ口調で「はい、次」と言った。
キャムが僕を見る。不機嫌を顕わにした、その瞳は、「いいの」と言っているように見えた。
僕は頷いた。キャムが小さく息を吐いた。
「キャム・A・ハーミット。ストライカー」
質問が始まってから初めて、タダン氏が振り向いた。
「……剣士ではないのかね」
タダン氏の視線は、ソファー横に置かれたキャムの重鉄製の剣に注がれている。
当然疑問に思うことだと予想していた。見るからに重そうな、小柄な身体に似つかわしくない剣。
さっき、タダン氏は『答えられないこと』なら答えなくていいと言った。キャムにとって……僕らにとって、『その理由』はどちらだろうか。
キャムが大きく首を振った。否定のジェスチャーでなく、何かを吹っ切るようだった。
横たわる剣を見ながら、キャムが口を開いた。

「……お守りみたいなもの。剣は抜けない。『ココ』が原因」
そう言って、自分の頭を、コン、と叩いた。
なんともいえない、泣き笑いの表情で。

しばしの沈黙。グランさんもリブレさんも、その言葉の意味が分からないようだった。
タダン氏は小さく頷いた。
「抜刀痛……か。そういうことも、ある、な。さて、今回のクエストだが……」
詳細を話し始めたタダン氏の言葉は、あまり入ってこなかった。
抜刀痛。久しぶりにその名前を聞いた気がする。
キャムを蝕む、ある種、たちの悪い呪い。
そういえば、まだ、グランさんとリブレさんに、僕がキャムにかけ続けている、『トエ』について話してなかったな、と思った。

僕とキャムの約束は二つある。
1、キャムは、生命を奪わない。
キャムは生命が朽ちる瞬間を見たり、その断末魔を聞くと、感情が一時的に高ぶる。
声を聞くだけでも、キャム曰く『波の高い海を渡る船の上で三日三晩ダンス』をしたような気分になるらしい。視界に入ろうものなら、その比ではないのだけど。否応なしにモンスターとの戦闘がある場合、キャムが体力を削り、僕がとどめを刺すことで、危うい均衡をなんとか保っている。
そして、その2、キャムは一日一度しか抜刀しない。
『抜刀痛』は、その名前の通り、抜刀すること……抜刀されることに心理的な重圧を受ける症状の総称だ。過去になにかしらの剣に関わる恐怖が、そのまま抜刀へのトラウマとなる。軽度でも、頭痛・吐き気に襲われ、重度の抜刀痛は、時として生死に関わるとすらいわれている。
キャムの頭は、僕が起きて眠るまで、理砲の一種、『トエ』で守り続けている。『トエ』は、『パオ』を狭い範囲で放つもので、一度の抜刀による抜刀痛なら、その痛みを僕の理力で受け止めることが出来る。それでも、キャムが一度抜刀すれば、僕の理力が尽きてしまうほどの苦しみがキャムを襲うことを、僕は『トエ』を通じて理解した。理力は僕が眠れば回復する。それゆえの、(したとしても)『一日一度』の抜刀と約束をしているのだ。
タダン氏は『抜刀痛』を知っていた。あてずっぽうかもしれないけど、キャムの口調から判断したのだろうか。
それよりも、キャムが抜刀痛を持つことを、僕意外に知っているのはアッパーガーデンの社長だけだ。自分から言っていないとしても、隠す素振りなく語るキャムを意外に思っていた。
僕の思いに気がついたのか、キャムが僕を見上げた。
「答えられないこと、じゃなかった。答えたくなかったけど」
タダン氏の説明はまだ続いていた。話をきくだけでも充分なクエストだ。
僕は姿勢を正した。なぜだか、このクエストが終わったら、キャムと二人きりでおいしいポルッテでも食べたい、と思った。

タダン氏からの質問が終わった後は、小さな庭に出てのポージングが待っていた。
吹き抜ける風が気持ちいい。太陽は少し下がり、いずれくる夕焼けを予感させた。
「そう、剣を構えて……そのまま」
タダン氏は庭にあつらえたウッドチェアに腰掛け、手元にあるメモでなにかを書いている。
このパーティーの気持ちは、いつのまにか一つになっていたようだ。
『要求どおりにして、早く帰ろう』
眉をひそめながらポーズをとるリブレさんも、それをニヤニヤと見ているグランさんも、僕の横で膝をそろえて目をこすっているキャムもそう思っていることだろう。
「……わたしもアレ、やらなきゃいけないの」
けだるい口調のキャム。その声色の低さに少し怯えた。

意外にもポーズをとらされたのはグランさんとリブレさんだけだった。
キャムは立たされただけで、構えをとることも要求されなかった。
僕にいたっては呼ばれることすらなかった。
「なに、今回の内容に、ストライカーと、その、無職は出てこないのでな」
少し言いづらそうなタダン氏の言葉に、キャムが小さく吹き出した。

最初に通された居間に戻った。
同じように座った僕たちの前に、今度は氷の浮いたグラスが並んだ。
キャムはすぐに手を伸ばした。滑らかな喉が何度か隆起した。
「……砂葉茶。久しぶりに飲んだ」
タダン氏が頷いた。その手にも同じグラスが握られている。
「ご苦労だった。それを飲んだら、庭の裏にまわってきてくれ。最後の仕事だ」
そう言ってすぐに部屋を出ていった。
「ふぅ……ようやく最後だってよ。思ったより時間かかっちまったな」
「おう。話をきくのも辛かったけど、ポーズが恥ずかしくて仕方なかったな」
「そう言う割には後半は一人前の勇者の顔になってたぜ」
「お前だって詠唱のポーズのとき「インシニレイト」って小声で言ってただろ。インシニレイトなんて、炎系上位魔法じゃねぇか。唱えられんのかよ」
「うるせぇよ。……言うのにレベルは関係ねぇだろうが」
さてと、と声に出して、二人が立ち上がった。
「ま、あと少しみたいだから、付き合ってくれよ、お二人さん」
希望通り、夜までには終わってくれそうだった。僕は頷いた。
「ヤな予感がする。気のせいだといいけど」
空のグラスを両手で包んでいるキャムの呟きが耳に残った。

庭に出て、白の邸宅をぐるりと回った。
陽が傾いて、気温も下ったようだ。先ほど飲んだ砂葉茶と相まって、身体が冷えている。
「キャム、寒くない?」
何気なく訊ねたつもりだった。キャムが横目で僕を睨んだ。
「自分が痩せてるって言いたいの。もっと食べて肉をつけなさい」
本当、女の子(キャムだけ?)はよく分からない。

邸宅の裏手にタダン氏が待っていた。薄手の外套をまとっている。
タダン氏が僕たちに質問をした書斎が、窓の向こうに見える。
「少し冷えてきたな」
タダン氏が僕たちを見つけ、独り言のように呟いた。誰も答えなかった。
「そこに井戸があるだろう」
指をさした先、邸宅を囲む木柵の外側にぽつんと石造りの井戸がある。
使われていないのか、水を汲む桶が割れて横に転がっていた。
「その井戸は、今は使っておらん」
僕の思いを見越したようにタダン氏が言った。
「まさか、井戸を直して使えるようにしろ、とか言わねぇよな」
訝しげなグランさんに、タダン氏は苦笑した。
「そういうことではない。今は使っていないと言ったが、つい先日までは使用しておったのだ。実は、ここでゴブリンに襲われてな。一匹だけ群れからはぐれたようだった。水を汲もうとしたわしにいきなり飛び掛ってきたのだ。こんな場所に住んでおるが、見ての通り、わしは腕力に自信がない。慌ててそこの木桶を振り回したのだが、その際、汲みかけだった水が、偶然ゴブリンにかかってな。恐ろしい声を上げながら、そう、そこの井戸の中に落ちたのだ」
分かってきた。タダン氏は『二つの仕事』を同時にこなしてもらうつもりだったのだ。
「もう分かっているとは思うが、わしはこう考えた。このゴブリンの退治を依頼すれば、冒険者ではないわしが、普段知ることのないモンスターとの戦闘を間近で見ることが出来るのではないか。そしてその映像は、間違いなく執筆中の作品へのいいヒントになる、とな」
そして井戸も使えるようになるしな、と付け加えた。
僕はため息を吐いた。モンスター界では井戸に篭ることが流行っているようだ。戦闘がないと思っていたのは甘かった。
グランさんもリブレさんも苦い顔をしている。最後の最後に予想を裏切る内容が待っていたのだから仕方ない気もする。キャムは何も言わない。
水分だけでキャムが満足することはない。
無言なのは、空腹だからだ。

「本当に、ゴブリンは一匹なんだろうな」
ブーツの紐を固く縛りなおすリブレさんがグラン氏に顔を向けた。
「間違いない。落ちたあとはすぐに蓋をしたのだ」
「それって何日前だよ」
グランさんは深呼吸しながら屈伸をしている。
「二日前だな。翌日に依頼をして、今日君たちが来た」
「もう死んでるんじゃねぇの」
冷やかしたグランさんに、タダン氏が頷いた。
「それならそれでいい。確認をしてくれれば井戸は使える。創作のヒントにはならんだろうが」
「落とし穴を使うキャラクターでも登場させればいいんじゃねぇの。モンスターを空腹にして倒すヤツ」
笑うリブレさんに、タダン氏が「なるほど……おもしろい意見だな」と答えた。
「……キャム、大丈夫?」
重鉄製の剣を『恐怖の音』をさせながら外しているキャムに声を掛けた。
「分からない。四人いればゴブリン一匹は楽だと思うけど。いつなのかタイミングが分からないのが、ちょっと、イヤ」
ぱちん、ぱちんと付け直して、キャムが答えた。
キャムの言う『いつ』とは、ゴブリンが力尽きる瞬間のことだ。
僕と二人だけなら、ある程度から僕が引き継いで、殺す瞬間にキャムに合図を送ればいい。今回はそれができない。
「なんなら、ずっと後ろにいていいよ」
三人いればいいだろうとは思う。戦闘職が二人いれば、僕の『理砲』も少しは役立てる。
『パオ』がグランさんとリブレさんだけなら負担も少ないかも知れない。
「エマに守られるだけなの、もっとイヤ。わたしのプライド」
キャムが普段見せることのない、悪戯っぽい表情で首を振った。

「とりあえず『読んで』みたが、気配は感じられない。寝てるのか死んでるのか分からんが、動いていないのは確かだ」
井戸を覗き込んだリブレさんが「まっくらだな。何もみえねぇ」と付け加えた。
タダン氏は外套の襟を合わせ、その上からベルトを巻いている。胸元のポケットにメモ帳が覗いている。
「んじゃ『見て』みるか。いきなり襲われたんじゃかなわないからな」
グランさんが両手を合わせた。コォォと細く息を吸った。
「視炎」と聞こえた気がした。合わせた掌の間から緑色に燃える小さな炎が出現した。井戸の上で右手を握り締めた。炎は緑色の細かい雫になり、井戸の中に落ちていった。
僕は井戸を覗き込んだ。微かに底が見える。
「かっこつけやがって。その視炎って、視力いくつあんだっけ」
「集中してんだ。ジャマすんな」
リブレさんの嫌味をさえぎって、グランさんが目を閉じた。
「……いないな。動くものもなにもない」
そう言って右手を振った。炎は消え、井戸の底はまた闇に戻った。
「オッケイ。それじゃ先にいくぜ。……怪我すんなよな」
後の言葉はタダン氏に向けられたものだ。タダン氏は深く頷いた。
リブレさんは水汲み用の滑車につかまると、垂れ下がるロープを握った。
「よっ」
井戸の縁を蹴った。数秒後、水が跳ねる音と「つめてっ」という声が聞こえた。
「そんなに深くねーな! 水も全然ないぜー!」
リブレさんの言葉にタダン氏が首をひねった。
「水がない? そんなわけはないのだが……」
リブレさん、グランさん、キャム、僕の順に井戸に降りた。最後にタダン氏がおそるおそる降りてきた。グランさんがたいまつに火を灯した。ぼんやりと井戸の奥底が浮かび上がった。リブレさんが言ったとおり、水がない。ブーツの足裏を浸すぐらいの高さしかない。
「つい最近まで使えてたんだろ? 水がないのはおかしくねぇか?」
「というと、わしが嘘をついているとでも?」
タダン氏は憮然とした表情で答えた。
「そうは言ってねぇけど……」
リブレさんの呟きを、グランさんが遮った。
「なぁ、タダンさん。ちょっと訊きたいんだが、井戸ってのはこんな、横に広がってたか?」
グランさんが火球を放った。壁にあたらず、たよりなく揺れて進む火球は、10メートルほどで、ふっ、と消えた。
不思議な光景だった。石造りの井戸の底。その横手に巨大な土壁の穴が続いていた。
まるで巨大な蟻の巣のような横穴。井戸の水は奥まで続いている。突き当たりは見ることができないほど遠い。ぼこぼことした壁に触れた。ひんやりと湿ってはいるが、崩れることはなかった。
「……なんだこれは。こんな……穴など知らない」
タダン氏が呆然としながら呟いた。その表情は嘘を言っているようには思えなかった。
「まぁ、あるんだから、しょうがないじゃねぇか。で、どうする。行くのか?」
リブレさんが腕を組んだ。やばい予感がする。そう言っているような顔だ。
「……なにがあるかだけでも、確かめたい。危なかったらすぐ戻ってくれればいい。ゴブリンもいなければ、井戸の使用も諦めよう」
タダン氏が声を低くした。
「……わかった。なんかあったらすぐ引き返すからな。二人も、いいか」
グランさんが神妙な面持ちで僕らを見た。
僕は頷いた。キャムが剣の抜き手ではない左手で、僕の服の裾を掴んだ。その手の上から、握った。
たいまつは一本。今は先導するリブレさんが握っている。その明かりは、みんなの顔がかろうじて分かる範囲にしか広がっていない。
離さないように、と右手を強く握り締めた。
握り返してきたキャムの左手は、驚くほど冷たかった。


どれほど歩いただろうか。曲がることも迷うこともなく、ただ延々と同じ土肌が続いている。時間にして30分ほどは経ったように思える。もしかしたら10分も経っていないのかもしれない。同じ土の色に、水分を含んだ土を踏む感触。時間経過がまったく不明瞭だ。歩き始めてすぐに誰も何も言わなくなった。
「休憩、しないか」
グランさんが声をあげた。立ち止まったみんなの顔には疲労の色が濃く浮かんでいる。進んでいる実感もないままただ歩いているのだ。精神的にも肉体的にも限界が近い。タダン氏もよくついてきているものだ。
「いったいどこまで続いてるんだよ、この穴は」
リブレさんが怒気をあらわにした。タダン氏は膝に手をついて深く息を吸っている。
「この井戸は、確かに縦穴しかなかった。それは断言できる。横穴が……ましてやこんな深い穴があるなんて、わしも驚いておるのだ」
「引き返そうとは思わないの」
終始無言だったキャムが、誰にともなく言った。
「俺も同じ事を考えていた。この雰囲気は、はっきりいって不気味だぜ」
グランさんがそう言って、リブレさんに顔を向けた。
「……モンスターの気配はずっと無い。行き止まりがあるのなら見てみたい気持ちはあるけどな。引き返してもいいと思う」リブレさんも同意した。
僕たちは一斉にタダン氏を見た。なにしろクエスト依頼人はタダン氏なのだ。決定権はタダン氏にある。
しばし考え込んで、タダン氏が口を開いた。
「正直なところ、早くそれを誰か言ってくれんかと思っておったのだ。まったく、君たちはタフだな」
グランさんとリブレさんがずっこけた。呆れた笑いと、安堵の笑みが半分半分の表情だ。
タダン氏はいそいそと立ち上がった。一刻も早くここから立ち去りたいようだ。
「やっぱり変人ね」
キャムの呟きはリブレさんの叫びでかき消された。
「動くな! なにかいる!!」
「なんだってんだ!? どこだよ!!」
リブレさんが指をさしたのは、ここより先の方角だった。
「近い。今の今まで反応はなかったんだ……クソ」
キャムが拳を握って開いてを何度か繰り返した。翡翠色の瞳は、まっすぐに先に続く深遠を見つめている。念のため、タダン氏も含めて全員に『パオ』を放った。
「『視て』みる」
グランさんが『視炎』を暗闇に投げた。リブレさんも冗談を言わなかった。
空洞が緑色に染まった。ふらふらと頼りなげに緑の炎が進んでいく。
15メートルほど先、広がった土壁と、その中間にうずくまる黒い影が見えた気がした。
「……死んでるぜ。ゴブリンだ」
タダン氏が唾を飲み込む音が聞こえた。
「死んでるって?」
リブレさんが繰り返した。
「ああ。行ってみるか。目と鼻の先だ」
「そんなわけはないんだがなぁ……さっきは確かに」
愚痴るリブレさんの腕を取り、グランさんが先に進んだ。
僕たちも後に続いた。タダン氏は僕たちの後ろを恐る恐るといった面持ちでついてきた。

ゴブリンだった。正しくはゴブリンだったモノだ。姿形は、確かに今日の昼に見たゴブリンそのものだった。湿った地面に伏せるようにして、息絶えている。
ここが行き止まりらしい。横に三人並べないほど狭かった土壁は、ゴブリンの死体のすぐ手前から広がり、天井をかたち作っていた。移動民族のテントほどの広さだ。その謎の空間が、横穴の行き止まりだった。
井戸に落ちたゴブリンの死体を見つけても、誰も喜べなかった。
ゴブリンの死体は、湿気が多いはずの井戸の中で、カラカラに乾燥した異様なものだったからだ。

「……どういうことだよ」
座り込んだグランさんの声はかすれていた。
「なんで、二日前まで生きていたゴブリンが、ミイラみたいにカラッカラなんだ」
ゴブリンの死体を剣先でつついたリブレさんの目には怯えが浮かんでいた。
体中の血と体液を残らず奪われたように。
その周囲には一滴の血痕も残さず。
まるで吸血鬼に襲われたように。
「待て。分かったかも知れん」
突如タダン氏が口を開いた。
考え込むように顎に指をそえた。小声で何かを呟き始めた。
つまり、そういうことか。そう言って大きく頷いた。
タダン氏は顔を上げた。堅く、苦渋に満ちた顔だった。
「わしの感覚だと、ここは井戸から3、40分ほど歩いた場所だろうと思う。井戸は邸宅の裏側の、南西にあたる方角にある。そこに降りて、さらに南の方角……首都マグンを正面に見る形で、この方角に歩いてきたのだろう。地上で考えて、そこにあるのは……」
グランさんが大きく溜め息を吐いた。そういうことか。同じ言葉を口にした。
「モザの口。巨大なヒルが巣食う人食い森」
針葉樹の森。鬱蒼と生い茂った陰鬱なダークグリーンの塊を思い出した。
モザという吸血モンスターが木の幹に張り付き、獲物が迷い込むのを待つ。熟練のパーティーでも避けて通る森……。
「そのとおり。わしはこの仮説が正しいと今は確信しておるよ。上を見てみるがいい。天井だ」
言われるがまま、リブレさんがたいまつを掲げた。

根っこだ。太い一本から細い二本に別れ、それがさらに細い何本に別れている根っこ。土壁のドーム型をした天井一面に、同じ根が、それこそ屋根を作るかのように絡み合っていた。
「針葉樹の根だ……」
リブレさんが天井を見上げたまま言った。
それでは、このゴブリンはモザに、体中の体液を吸い取られてこのような姿になったのか?
だとしたらモザはどこにいるんだろう? 途中の壁にはなにもいなかった。
キャムの様子が気になった。すでに死んでいるものを見るのは平気だが、ここまで異様なものを見たら……。視線を戻した瞬間。

タダン氏に向かって疾る影を見た。皆は魅入られたように天井を見上げている。
声が出るより先に身体が動いた。二歩跳んだあとに「危ない!」と叫んだ。
振り向いたタダン氏の、大きく見開かれた瞳。その目尻に刻まれた皺の数まではっきりと見えた。飛び込んだ。両手でタダン氏を強く押した。「がっ」という叫びが聞こえた。
よかった。そう思った次の瞬間、体全体に衝撃が訪れた。
腰から下半身がねじれ切れる気がした。麻袋を破った音が聞こえた。
熱い。右の脇腹が燃えている。
「エマ!!」キャムが僕を呼んだ。駆け寄るキャムにVサインを出す。
だいじょうぶ……。燃え盛る脇腹に触れた。ぬるり、と暖かく滑った。そして異物。
脇腹の穴を広げようとぐねぐねと身を躍らせる触手。はじけた僕の脇腹から黒く光る血がしぶいている。異様に大きい花の蕾のような触手の先を支点に、薄い緑の外皮が四つに割れた。ぬちゃッ、と嫌な音がした。細かな歯が並ぶ赤い果肉がぶるぶると震えた。歯と歯の間に粘液が糸を引いた。それ自体が顔のように、ニヤっと笑って見えた。
触手が勢いよく引かれた。歯がいくつも食い込んだ。ぷっぷつと肉に針を刺す音がいくつも鳴った。
なるほど、釣り針みたいなものか……。刺す時は鋭利な先が抵抗も無くするりと入り、その先が開くと決して抜けぬように肉に喰いこむカエシになる。冷静にそんなことを考えた。
触手がゆっくりと引かれていく。引きずられた。脇腹が悲鳴をあげている。キャム達と向かい合う形だ。
グランさんが顔ほどもある火球を僕の後ろに投げつけた。
「ビュルリィィァアァァッ!」
弾ける音の後、洞窟内に耳をつんざく叫びが響いた。
僅かに草の燃える匂い、そして生物が燃える濃密な肉の匂い。
「なんだなんだよこれは!!?」
リブレさんが剣を構えた。
頭が痺れている。脇腹にも電流が流れているようだ。引きずられつつも、僕は踏ん張ろうとした。ばたばたと踵が湿った土を掻き分けただけだった。
右腕になにかが巻きついた。そのなにかに肌が擦れて、擦り剥けた。初めて痛みを感じた。締め付けられた。思わず悲鳴が出た。『シメ』をされるときのニワトリのような声だった。右腕と脇腹がものすごい力で引かれた。
脳が覚醒した。体内をかき回される激痛を教えてきた。喰いこむ歯の一つ一つが分かった。痺れは今はもう確かな痛みだ。右腕の骨が軋んだ。皮膚も筋肉も超え、直接痛覚を握られている。
なんてこった。『骨が痛い』
右腕が高く上げられた。肩の関節が外れた。抗いようがない力に引かれ、体が中に浮いた。悲鳴と一緒に出た涎と涙が、背後でチラチラと燃える炎を映した。


触手が止まった。背中にぶよぶよとした何かが触れている。かろうじて首が動いた。
振り向いて見えたのは、まさしく巨大な花弁だった。毒々しい赤色で脈打つ果肉。異常なまでに膨らんだ果肉は醜悪だった。歪んでいて、捩れていた。震え、揺れて律動していた。どことなく男性器を思い起こさせた。
見上げた。隙間なく張り巡らされた針葉樹の根に絡みつくように、触手と同じ色の、この生物の根が巻きついていた。
モザの口の真下、モザが張り付く針葉樹の根から栄養を吸い取っているのだろうか。だとしたら、コイツはモザの親玉なんだろうか……?
「おごっ!」
グランさんが触手に弾き飛ばされた。背後の土壁にぶち当たって、ぐにゃりと倒れこんだ。僕の『理力』がその一撃だけで尽きた。『パオ』も、キャムの『トエ』も消えた。
やっぱり、役立たなかったなぁ……。ふとそんなことを考えた。
地面に手をついたグランさんを、触手が見定めた。はじかれたように伸びた。リブレさんが跳んだ。投げ捨てたたいまつに反射して、切っ先が煌いた。
「ビィィィィッッ!!!」
音波のような叫び。グランさんを屠った触手が、切断され地面を跳ね回っている。
「……僕に二本、一本切れて……あと……一本」
その一本は、思わぬ反撃を受けたことに驚いているのか、キャムたちと距離をとって中空で漂っている。
その一本が僕の前に引かれた。先が、僕を確かに見た。それからキャムたちに向いた。
『お前は人質だ』
『こいつは人質だ』
そう言っているような動きだった。
右腕の触手がさらに締まった。
骨そのものが、音より早く、折れた音を伝えてきた。一拍置いて、信じられない痛みと熱。
歯を食いしばっても、叫ぶことを止められなかった。
触手はギリギリと折れた腕を締め付けている。死んだほうがまだましな痛み。
ちぎれる。呼吸が自分のものではないように思えた。
早鐘のように跳ねる心臓。張り裂ける気がした。脇腹が僕の体重で破れていく。耳の中で轟音が鳴っている。滲んで、ぼやける視界。
いっそちぎられたい。
間断なく痛みを伝える頭を吹き飛ばしてほしい。
死にたい。
殺してほしい。
耳鳴りがする。
遠い怒号が聞こえた。
「えまぁッ!」
キャムが、剣を抜こうとしている。
いけない、それだけは……。
『トエ』を練ろうとした。
その理力がもうどこにも見つからなかった。
「……キャム、ダメだよ……いけない」
擦れて、そう言えたかも分からない自分の声。
「あがァァあっ!!」
キャムが叫んだ。腰から剣が離れた。両手で鞘ごと大きく振った。
鞘が弾けとんで、キャムの後ろの壁に当たった。金属質の爆ぜた音。
ダメだよ……キャムの頭が割れちゃうよ……思考がゆっくり遠くに消える。
切っ先で地面を削り、火花を引き連れてキャムが駆けた。
翡翠色の瞳から雫が流れていた。

「痛みがなんだッ! 過去がなんだッ! 割れるなら割れてしまえッ! こんな頭なんかくれてやるッ!!」
キャムが吠えた。それ自体が生物のように額で脈打つ血管。
近づいちゃいけない……逃げるんだよ、キャム……。
「このッ……薄汚い引きこもりの植物風情がッ、わたしの……わたしのエマに触れるなあッ!!」
キャムが、剣を投げた。空気がわなないた。唸りながら風を切り裂いた。
柔らかい果肉が潰れる音の後、世界が揺れた。
「ボォォォォッ!!」
地鳴りのような叫び声が響いた。腕の締め付けが消えた。
次の瞬間、僕は地面にたたき付けられていた。
「エマッ! エマッ!」
3メートルほど向こうで、倒れ込んだキャムが手を伸ばして僕を呼んだ。
ああ、残念……届かないよ、キャム……。
彷徨うように浮かぶその手がブラウンシュガーの頭を抱えた。
「ぐぅッ、あぁ……!」
抜刀痛……いいんだ、キャム、無理しないで。
僕はもう平気だから。今はどこも痛くないんだ。
微笑めたか分からない。
キャムに「大丈夫だ」と言ってあげたかった。
キャムの瞼から溢れ出て地面に落ちる雫が綺麗だと思った。
暖かい自分の血溜りの上、震える胸の奥底に、少しだけ熱を感じた。
なんだ、まだあるじゃないか。
震え、たゆたう翡翠。
二つの緑の星に、惨めに伏せる僕が映っている。
僕を見るキャムに、ゆっくりと掌を向けた。
伏せた地面が粘った音をたてた。黒ずんだ赤が糸を引いた。
いつかのベッドの上と同じ、キャムがいやいやをするように首を振った。
なんだかそれも、もう遠い昔な気がする。
掌の中心が熱くなった。キャムに放った。キャムが目を閉じた。
小さな額から汗が流れた。
「……バカ」と聞こえた。
最後の『パオ』、願わくば、キャムを守れ。

「なんで、また……助けられないの……」
赤子のようなキャムの泣き声。ほかには何も聞こえない。
助けられたよ。
いっぱい、いっぱいね。
キャムはそういうところが、鈍感なんだよ。
僕はもう大丈夫だから。

「強くなっても……大切な人ひとりも……守れないの……なんで、この頭は……助けさせてくれないの……」
守ってくれたよ。
たくさん、たくさんね。
キャムは意地っ張りだから、認めないけどね。
だから、泣かないで。
いつもみたいに、冷静な顔で僕を叱ってよ。

頭が重い。支えているのも辛くなってきた。
光が遠くから差し込む。不思議と暖かい気持ちになれた。

「エマ……エマ……エマッ! いやだ……ねぇッ…エマを、エマを、助けてよ……
 エマッ…えまぁっ…ぐっぅ…お願いだから……エマを……助けてよぅ……」

視界が殆どなくなってきた。おぼろげになるキャムの姿。
キャムの嗚咽に被さって、リブレさんが「グラン、立てるか?!」と叫んだのが聞こえた。

「おぉよ……っと!」
「よし、よく立った。さて、どうするか、な……」
「それにしても、やばいな……」
「ああ、やばい。大ピンチだ」
「これは、死ぬかもしらんな」
「ああ、普通に死んじまうかもな」
「怖くないか?」
「無茶苦茶怖ぇえよ。さっきから震えがとまらねぇよ」
「頑張っても俺たちじゃ傷ひとつ付けられないかもな」
「ああ、こんな怪物と戦ったことないよな」
「まっさきに逃げるレベルだぞアイツ」
「それでも……なあ」
「ああ、立てたからな。立っちまったからな」
「性格はともかく、可愛い女の子が……泣いてるしな」
「ああ、許せんよな」
「怖いとか痛いとか死ぬだとか……そんなの置き去りにして俺達には珍しく馬鹿みたいにがむしゃらにどこまでも走ってやれるだけやっていけるところまでいくしかないよなぁ」
「いくぞ」
怒号と光、金属の擦れる甲高い音。
グランさん、リブレさん、キャムを連れて逃げてください。
お願いです。
呼吸が細くなっていくのがわかる。
吸っても吸っても苦しいままだ。
僕はこのまま死ぬのだろうか。
怖い気持ちは無い。
無いけど……ただキャムのことだけが心配だった。
あれほど邪険に扱われてたのに……自分で自分がおかしくて、霞む頭の中で笑った。

ごめんね、キャム。
結局君の傷を癒してあげられなかった。
でもね、僕と初めて会ったときよりは、笑顔、増えたよね。
ちゃんと、ご飯、食べるようになったよね。
それだけが、僕がキャムにあげたもの。
僕の誇り。
なんだか、少なくて、ごめんね。

「グラン!」
「リブレ!」
聞いた事がない女性の声が洞窟内に響いた。
同時に視界が完全な闇に包まれた。
真っ暗で、戦闘の音も遥か遠く消えていく。
「エマ……うぅ……エマッ……えまぁッ……!!」
何も聞こえなくなる瞬間まで、キャムが僕の名前を呼び続けていた。

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