「そ、そこのっ! そこのあんちゃん! ちょっと!」 背後からそう声が聞こえて、イナフはどうすべきか迷った。 他に通りを歩いている人間はいない。間違いなく自分に向かって言っている。 あまりにもタイミングが良すぎる。 「ちょっと! 聞こえてるんだろう! おいっ! 助けてくれ!」 「助けてくれ」という言葉が聞こえた時点で、彼女はそちらを振り返った。騎士団たるもの、人に助けを請われて見過ごす訳にはいかない。 「そう、あんただよ! ちょっとこれ、どうにかしてくれ!」 大声でわめいていたのは本屋のジョセフ・マルティーニであった。彼は倒れかかるいくつかの本棚を、両手で必死に抑えていた。 イナフは速やかに彼の元へと走り、本棚を押して元の位置に戻した。 「はあ、助かったよ。最近、ちゃんと元の位置に戻さない奴が多くてさ。そろそろきちんとしたルールを作らなきゃダメだなあ」 ジョセフは汗を拭きながら言った。 イナフはもう、確信していた。 これは罠だ。すぐに立ち去るべきだろう。 「……けががないようで良かった。これで失礼する」 「あっ、ちょっと待ってくれよ。何か礼をさせてくれ」 そら来たと、イナフは眉間に皺を寄せた。 「あいにく、急いでいる。失礼する」 「あ、そう。ならいいんだ。ありがとう」 イナフは、そこでぴたりと止まった。 あきらめるのが、あまりにも早すぎやしないか。 なぜ粘らない。不気味だ。 まさか、これもまた罠か? 私がここをスルーすることを、リブレは想定しているとでもいうのか? ……そうはいかぬ。 ジョセフは不思議そうに首をひねった。 「……どうしたんだ? 急いでるんじゃないのかい?」 「あ、ああ。そうだが。少し時間が早かったなと思ってな」 「ああ、そんならここで時間をつぶしていきなよ。立ち読みも自由だぜ。あんたにとっての掘り出し物がここあれば幸いだ」 「そうさせてもらおう」 イナフは不本意ながらも、本屋に入った。 汚い本屋だった。新品の本はほとんど見あたらない。よくもこれで経営が成り立つものだと思いながら、彼女は本の背表紙を見ていった。 「ん……」 イナフは、一冊の本に目をとらわれた。彼女は吸い込まれるようにしてそれを本棚から抜き出し、はっとした。 「『ルイス冒険記』の第四巻……! しかもこの挿し絵を見るに、これは初版じゃないか……!?」 「おっ、あんちゃん通だね。『ルイス』好きなのかい」 「ルイス冒険記」は王都マグン住民のご多分に漏れず、イナフの愛読書の一つであった。 ちなみに第四巻の初版は、挿し絵を描く人間の手違いでルイスの剣が直刀でなく曲刀として描かれてしまい、リアリティをなにより大事にする作者のトーマス・リングスが「これを発売したままにするのなら、続編の執筆をやめる」とごねてしまい、すぐに回収となった曰く付きの一冊である。 「ああ。しかしこいつは、とんだプレミア物じゃないか。どうしてこんな場所に置いているんだ?」 「んー、まあ、俺にとっては割とどうでもいいことなんだよね、初版とか、そうじゃないかとかってさ。四巻が面白いことには変わらないからね。それにルイスの剣は直刀ってのが通説だけど、そうとも限らないじゃない? 結局作者ですら、ちょっと旅に同行した程度なんだから」 ジョセフは軽く言った。 イナフは少なからず、この本屋のあるじの考え方に好印象を持った。第四巻は、イナフも大好きな一冊であった。 「なるほど……。では、せっかくだからこれを頂こう」 「あ、ごめん。それは売れないんだった」 「……売れない本を、商品棚に置いているのか?」 「ゴメンよ。これ、友達の奴だった。借金の担保に預かってたんだよな。裏に名前が書いてあるだろう?」 「だとすれば、些か不用心ではないか? この本は本当に貴重な……」 あきれながらもイナフは本を裏返した。 そこには、こう名前がかかれていた。 「リブレ・ロッシ」。 イナフの背中に電撃が走った。 「んなっ!? リ、リブレだとっ!」 とつぜん大声をあげたので、ジョセフはびくりとした。 「あ、ああ。やつと知り合いなのかい?」 イナフは、思わずぞっとした。 すっかりこの本屋のペースに乗せられてしまっていた。 そう、ここはリブレ・ロッシのねぐら。本拠地。アジト。 これも自分を油断させる罠に違いない。 いくら「ルイス」が好きだからと言って、こんなところで油断するとは情けない! しかし、この男は失敗した。リブレの名前を見せ、自分を冷静にする隙を作ってしまったのだ。 「……そうか、そういうことだったか。私はまたしても、罠にはめられるところだった」 「……あんちゃん、どうしたの?」 「フン、もう遅い。私はこれで失礼する」 「あっ、待ってくれよ」 「待たぬ!」 イナフが歩いていったところで、ジョセフが必死に言った。 「マジで待ってくれって。どうせこの道を進んでるんだから『ルーザーズ』に行くんだろ。だったらこれ、奴に届けてくれよ。たぶん、いると思うから。知ってるだろ? あいつ、『ルイス』にはほんとうるさいからさあ。借金を返してもらった時見つからなくて、あいつに斬り殺されるところだったんだ。ちょっと、ばつが悪いんだよ」 イナフはぴたりと止まった。 「……やつは、『ルイス』が好きなのか……?」 「なんだ、知らないの? マニアもマニアだよ。でも見たところ、あんちゃんも同レベルだね。この四巻を背表紙だけで見つけられる奴なんて、滅多にいないだろうから。きっと二人で話をしたら、盛り上がるぜ」 イナフの顔は、突如として熱を発した。 「ばっ! どうして私とリブレが盛り上がらなければならんのだ!」 「……あいつが嫌いなのかい? まあ、それなら無理にとは言わないけどさ」 なんだか、試されているような気がする。だが、これで断ってしまうのは、誇り高き騎士団員として模範的な行動とは言いがたい。 どちらを優先すべきなのかは、はっきりしていた。 イナフは咳払いをして、本を手に取った。 「仕方がない。私からやつに届けておこう」 「よかった。でも、もったいないね」 「何がだ?」 「あんたにどんな理由があってリブレを嫌っているのかは知らないけどさ。共通の趣味を持っているのなら、心を開いてみなよ。案外、サシで飲んでみたらウマがあった、なんてこともあるかもしれないぜ? ここじゃそれで損してる奴ばっかりだからね。それにあんたとあいつ、どこか似ているような気がするよ。一生語り合えるようないい友達になれるかも」 イナフの胸の奥に、桃色に輝く弓矢が次々に突き刺さった。 彼女はその場に倒れ込んで胸をおさえた。ジョセフは仰天した。 「お、おいっ!? どうしたんだ」 「そ、そんなことを言っても無駄だ……し、失礼する……」 イナフはよろよろと起きあがって店を出た。 イナフはもはや、ぼろぼろだった。 リブレ・ロッシ。 やはりあの男は油断ならない。というよりも、もはや奴は強大な敵だ。 このサン・ストリートは、まるで毒の沼だ。 歩けば歩くほど、体力と精神力を消耗させられる。 ただ歩いているだけなのに、彼女は息切れを起こしていた。 胸が痛い。こらえられない。 こんな状況で奴の元に向かわねばならぬとは。 ここで引き返そうかと、イナフは思った。 しかし、それでは先ほど預かった本を盗んでしまうことになる。 それも、リブレ・ロッシの名前入りだ。こんなものを部屋に置いておくことはできない。 何より、ここまで来たのだ。こんなところで逃げたと知られれば、ますます奴に増長されてしまう。 歩け。とにかく歩くのだ。 彼女がそうやって自分を鼓舞して歩いた先に、ようやく看板が見えた。「ルーザーズ・キッチン」だ。 「とうとうここまで来た……。ようやくだ。奴の本性を暴く時が来た。私は、気分よく帰るのだ。この戦いに勝って、ようやく気分よく帰るのだ!」 イナフは自分を鼓舞しながら、ドアを開いた。 「らっしゃ……」 雑に言い掛けたマスターは、そこで声を止めた。 「確かイナフ君だったな。よく来たな」 「どうも」 どうやら前に来た時のことを覚えているようだった。もしかしたらリブレから話を聞いているのかもしれない。 この男も敵の可能性が高い。イナフは警戒して、辺りを見渡す。 何組かの冒険者グループが飲んでいるが、リブレは……いない。 いない。どういうことだ。 「あの、ロッシ君はどこに。ここにいると聞いて来たのですが」 マスターは不思議そうに首をかしげた。 「リブレかい? 今さっき、帰ったところだけど」 「帰った!?」 イナフは声をあげた。 おかしい。それならばすれ違っているはずだ。 マスターは少し困惑気味に言った。 「ああ。どうしたんだ? またあいつを探しているのかい?」 イナフはそこで、本を取り出した。仮に敵でなかったと想定しても、ここで怪しまれるのもやっかいだ。 「すぐそこの本屋の方から、これを渡すように頼まれまして」 「なんだ、そういうことか。わざわざすまないね、じゃあここに置いていってくれ。たぶん明日も来るだろうから」 「で、できれば本人に直接渡したいのですが」 「それなら、今日は持って帰ってくれていい。君なら信頼できるからね。リブレもこの間、また話をしたいって言ってたし、騎士団の仕事が休みの時に、また来てくれよ。そう伝えておくから」 「は、はあ……」 イナフは一気に肩の力が抜けたようだった。 ここまで来て、会えないとは。やはり、これは全て仕組まれていたことなのかもしれない。 この程度では、自分に会う資格はないと、そういうことなのかもしれない。 「そういうことならば、出直します」 「ちょっと待った」 マスターは彼女を引き留めると、カウンターにグラスをどんと置いた。 「一杯飲んでいきなよ。なにか疲れているみたいじゃないか。君の兄さんはそんな時、いつもこいつを飲んで、笑顔で帰っていった。……こないだは、門前払いみたいにしちまって悪かったね。リブレたちから、一悶着あったことは聞いている。でも、だからこそここで、パレット君の話でもしないか? 今日はおごるよ」 マスターはにっこりと笑った。 そういえば、この人の話は、兄から良く聞いていた。 どんなことでも相談に乗ってくれる、頼れる兄貴分だと、良く言っていた。 疲れ切っていたし、純粋にこの男の話が聞きたいと思い、イナフはカウンターに腰掛けた。 「わはは! その時にパレット君ときたら『じゃあ、僕の命を賭けます!』とか言い出しちまってよお、みんなで必死に引き留めたもんだ」 「へえ! 兄さんはそういう時、止めれば止めるほどムキになりますからね」 「そうなんだよ! あいつはすぐに突っ走っちまうからなあ! ほんとにあの時は大笑いしちまったな」 イナフは数時間、マスターとの会話を楽しんでいた。 兄の話を共有できる人間は、そう多くない。話は大いに盛り上がっていた。イナフは久しぶりに、酒を飲むことを楽しんでいた。 「……おっと、もうこんな時間だ。城に戻らなければ」 「なんだ、やっぱり城勤めには門限があるのか。たまに騎士団の奴もここに来るけど、そんな風には見えないがなあ」 「そいつらはきっと、街内管理の人間ですよ。僕らみたいな討伐は、朝も早いですし、基本的に休み以外は帰れませんからね」 「まったく、君は立派なやつだな。顔つきもパレット君にそっくりだし、なんだか懐かしい気持ちになるよ。立派な弟さんを持って、あいつも鼻が高かろう。……あれ? そういえばパレット君、弟がいるなんて言ってたかな……? 確かきょうだいがいるって話は聞いたことがあるけど」 どうやら自分のことを知らないらしい。イナフは慌ててゴールド硬貨をカウンターに置いた。 「こ、この辺で失礼します!」 「おう。君ならいつでも大歓迎だ。その金は次回の分にしておくからまた来いよ、イナフ君」 「ええ。また来ます」 リブレには会えずじまいだったが、イナフはこの店のことを猛烈に気に入ってしまった。見た目ではわからないが、出される酒も非常に良質だ。何より、兄をよく知る人物がいる。 イナフは名残惜しさを残しつつも、急いで店を出ようとした。 だが、その時。 思っていたよりも深酒をしてしまっていたらしい。足下がふらつき、彼女はバランスを崩して倒れ込んだ。 「あっ!」 「おっと!」 そこを、ちょうど入店してきた誰かが受け止めてくれた。 「大丈夫ですか?」 「も、申し訳ない……助かりまし」 イナフはその顔を見る。 リブレ・ロッシだった。 「たっ!?」 イナフは驚いた表情のまま、硬直した。 「イ……イナフさん?」 リブレは、少し驚いた様子で言った。 イナフはほとんど反射的に、彼をその場から引き離した。 その上で思った。 油断していた。まさかここまで来て、本人が出てくるとは思わなかった。 どうしよう。どうしよう。今日は会うのを諦めると心を決めたところだったのに。 彼の顔を見れば見るほど、イナフは焦った。 「せ、先日はどうも」 「あ、ああ」 とてもぎこちない挨拶だった。微妙な空気が流れたことを察してか、マスターがリブレに声をかけた。 「どうした、リブレ。明日早いんじゃなかったのか」 するとリブレは、弾かれるようにしてカウンターに詰め寄った。 「そ、そうだ! マスターさあ、『ルイス』の四巻持ってきた人はいないかい!? ジョセフのバカ野郎が、知らない人に渡しちゃったっていうんだよ! あの超プレミア本をだよ! まったく信じられないよなあ!」 「ああ、そういうことか。そこのイナフ君が届けてくれたよ」 マスターは本を取り出して彼に手渡した。リブレはそれを受け取ると、自分のものであることを確認し、顔をぱっと明るくさせた。 「ああ、よかったあ。これがなくなったら、もう俺、死んでたよ」 「だったら借金の担保になんかするんじゃない。ちゃんとイナフ君に礼を言え」 マスターにせかされ、リブレは彼女の方を向いた。 リブレは満面の笑みで、イナフに言った。 「なんだ、そうだったんだ。イナフさん、どうもありがとう!」 「あ、あ……!」 彼を前にして、言いたいことがたくさんあったはずだった。 やるべきこともあったはずだった。 だがイナフは、その笑顔を見た瞬間に。 心が一杯になってしまった。 「かかかか、構わぬ! 僕はこれで失礼するっ!」 彼女は自分の顔を両手で覆い隠して叫ぶと、全力で店を出て駆けだしていった。 リブレは笑顔のまま、首をひねった。 「……ねえマスター、今の、なに? 新しい挨拶?」 「酔っぱらってたんじゃないのか? ちょっと飲ませすぎちまったか。あの子の兄貴は、ほとんど底なしだったんだがなあ。おいリブレ、用が済んだなら帰れ。きょうはもう閉めるからな」 かくして、本日の「ルーザーズ・キッチン」の営業は終了した。 イナフは胸を抱えながら、全速力で走った。 酔っていることもあって、ふわふわと体が宙に浮かんでいるようだった。 それはもうふわふわと、気持ちが。 なぜだか気持ちが、浮かんでいた。 「く、くっそーーー! どうして、どうして奴を前にして、何も言えなかったのだ、イナフ・ストラウフ! それなのになぜ! なぜこんな気持ちになるんだーーーっ!」 深夜の街を、彼女は叫んだ。 |