演劇
男がいた。
男の親は観劇好きであり、彼をしばしば観劇へと連れていった。幼少の頃からそうして触れあっていたこともあってか、一人立ちした頃には自分にとって掛け替えのないものへとなっていた。
男はどんな日でも観劇をした。すでに生活の、人生の一部となっていた。
男は観劇好きのあまり、演劇を評論する職を選んだ。数え切れないほどの演劇を見た男の批評は的確であり、すぐに評判の評論家となった。
時が流れ、男は老人となった。観劇評論の第一人者となった彼は、もう自分の寿命が尽きそうであることを感じていた。
彼はなんとなく、言ってみた。
「記念に、一度だけ演劇をやらせてくれないか」
彼が演劇を行うと、観客は大きな拍手を送った。彼の演技は、ほかの誰もまねできないほどに優れていた。
もちろん、多くの演劇を評論してきたこともあったのだが、彼は見ているだけではどうにもならない、天賦の才を持っていた。
彼は言った。
「なんということだ。近くにいながら、なぜ自分の才能に気付かなかったのか。どうして、一度でもやってみようと思わなかったのだ。私は壇上に上がれる人間だったのだ、上がれる人間だったのだ」
2回目の劇の途中で、彼は往生した。
枕
寝室に枕が敷かれている。
見た目はどこも目新しくない、つまらないくすんだ枕だった。
しかしその枕には、枕にしておくにはもったいないくらいの気概があった。
枕はいつも夢見ていた。
「いつか、見知らぬ世界に出て、そこらじゅうを冒険してまわるのだ」
だが、運命というものは残酷であった。
枕にとって最大の不運は、枕として生まれてしまったことだった。彼はそばの実が詰まった頭のなかで、ものを考えることはできたが、それ以外のことはなにもできなかった。
枕の一日は人間を起こすことから始まる。と言っても、念じるだけである。パートナーというべき人間を「おい、もう七時だぞ、電車に間に合わないぞ」とせかすのである。
人間が無事起きてからは、あまりやることがない。というか、枕は自分で動くこともできないので、なにもやることができないのだった。
時には人間の飼う猫に小便をかけられたりすることもある。
「おいっ、てめえ、なんてことしやがるんでい」
と、気っ風よく猫につっかかろうとすることはできたが、つっかかることはできなかった。
平和な時間が終わり、枕のパートナーが帰宅する。どうやらいいことがなかったと見えて、荒れている。
「あの女! ふざけやがって、ふざけやがって。ああ、俺の枕に小便が。畜生、畜生」
パートナーは枕を女に見立てて殴りつけはじめた。
「おいおい、荒れてるな。話してみろよ。話くらいは、聞いてやれるぜ」
枕は器の大きな枕だったので、これくらいではびくともしない。しかし、言葉を発することはできないので、やはり好き勝手に殴られるのであった。
枕をひとしきり水できれいにして、パートナーは眠りについた。
枕は不満だった。
なぜ、この人間のようなどうしようもなく、情けない奴が動くことができ、俺は考えるだけなのだろう。
悔しい。悔しい!
時には気が狂ったように絶叫して、泣き叫ぶこともあった。
しかし、枕にはそれらを表現するすべをもっていないので、やはり敷かれるままであった。
枕はそういうとき、自分も眠りにつくことにしていた。
夢の中ならば、彼はどんな姿にもなることができたからだ。
冒険の旅に出て、人間たちと協力しながら、世界の謎を追求したり、戦ったり、秘宝を集めたりするのだ。
夢の中に、見知らぬ登場人物が現れることがあるのだとすれば、それはあなたの枕かもしれない。