ある午後の話

 気が付いたら、満は近くの川の土手まで来ていた。
 土手の先には大きな川が悠々と流れていて、満はその壮大さにしばらく呆然とした。
「ここで、いいかもな」
 満は土手に座り込んだ。
 今日あったことを回想する。…何も無かった。だが満は気にしない。彼にとって、そんなものはどうでもいいことなのだ。
「人って、なんなんだろうな」
 満は、土手に背中を預けて横になった。いい風が吹いている。だが、太陽は雲に隠れて見ることができない。それでも、満は気にしなかった。
彼にとって、そんな事実は取るに足りぬことなのだ。
「人生って、ほんとうにむなしいことだぜ。悲しみの連続だ」
 満は、地面を引っかいて雑草を根っこごと引っこ抜いた。
「ほら、これでこいつの命も終わりだ。命の終わりなんて一瞬のことなんだ」
 雑草をそこらに投げ捨て、腕を枕にして満は目を閉じた。
 人の人生、それは本当にはかないもので、それがどうの、なんやかの、やれペシミズムだ、やれ終末論だ、と、満は考え込んだ。
「俺の人生も、さっと消えてしまうかもしれないな」
 土手の畦道を、軽トラックが走った。もしも満がそこに飛び出したのなら、彼の人生は高い確率で終わってしまうだろう。

「でも、それが生きるってことなんだな。死ぬってことが、同時に生きるってことなんだ」
 満は満足げにして、少し涙を流した。
「その域まで達したら、もう生きることと死ぬことはほぼ同義だ」
 満は、川を見た。魚が跳ねた。
「だったら俺は、死ぬべき人間なのかもしれない」
 変な選民意識だった。だが、満は本当に自分がそうなのではないのかと、思った。
「俺が死んだところで、何が変わる訳でもないんだ。みんな日常を過ごして、楽しく生きる。俺が死ぬことも、その日常の一部に過ぎないんだ」
 満は、やっとこの域まで自分の考えが及んだか、と関心した。

 満は起き上がると、川に向かって猛然と土手を降り始めた。
 草を掻き分けていると、何かやわらかいものを踏んだ。
 気にすることはない。進んでしまおう。

 そう思った時、彼の右足に痛みが走った。
 すぐに草をどかし、満は足を見た。

 蛇が噛み付いていた。
 右足に口をいっぱいにしてしがみつく必死な蛇を見て、満はぎょっとした。
 
 辺りを見渡すと、やはり看板があった。
 
『マムシ注意』


「う、うわーっ! 噛まれた! ま、マムシにっ、噛まれたーっ! 誰か、きてくれっ、誰か! 誰か、助けてくれーっ!!」



老人

 老人はただ目を少しだけ開けて、うつろげに座っていた。
 その対面に座る満が彼の視線を感じてもう十分余り経つ。老人は満と目が合っても、目線をそらすことすらしない。非常に奇怪である。
 満はそれに耐えるように、席に腰を降ろしていた。せっかく座れたのに、気になって休まらない。
 開いた瞼からは、黒目しか見えない。それがまた、なんだか人外の生物みたいに見えてしまって、妙な威圧感を与えていた。
 満は携帯電話を開いて、真ん中のボタンを叩いた。だが、メニュー画面が呼び出された時点で彼の指は止まった。黒目が、得体の知れない黒いまなざしが、こちらに刺し込んでくるのだ。

 もしかしたら、と満は考えた。
 彼は自分の全てを見透かしているのではないだろうか。
 こちらがただ目線を気にしないふりをするために携帯電話を開いたことや、メール画面ではなくあまり使わないメニュー画面を呼び出したこと、全てお見通しなのではないのか。
 満は確信する。俺はこの老人に試されている。
 老人の顔を覗いてみる。
 水面の波みたいに刻まれた皺が、さっきより多くなったような感じがする。怒っているのだろうか。いや、それよりも特筆すべきは彼の皺の多さであろう。
 きっとあのくらいだと太平洋戦争や貧しかった戦後も経験している。現在の若者にとって考えられないほどの苦痛、飢え、そして無気力感をあの老人は受け止めて成長していったのだろう。
 その後も彼はこの日本が肥大化し、少しづつ冷めていく様を見てきたのだ。
 彼が持つ皺は、そうやって日本が歩んできた歴史でもある。
 その雄大さに、満は圧倒される。脂汗が体中から吹き出てくるのを感じる。
 勝ち目がない。
 生まれた時から裕福で、きょうびお気楽に過ごす若者の満に、どうしてその圧倒的な差を覆せるだろうか。
 満の頭からは、いつしか三角形の耳が生えてきている。体中はふわふわとした毛だらけだ。
 手からは柔らかい肉の塊が出てくる。
 そうだ、俺は猫なのだ。満は思った。
 老人からも、似たような物が生えてくる。しかし違う。彼の顔の周りには黄金のたてがみが生えてきている。
 ライオンだった。同じネコ科でも、孤高の王者と媚びることで生きながらえてきたせこい切れ者、天と地がひっくりかえるほどの違いがあった。
 彼がちょっと気まぐれを起こすだけで、猫の一生は瞬く間に終わってしまう。
 それくらい、満の命は軽かった。

 満はがくっとうなだれた。
 汗がこめかみを伝い、床に落ちた。体はがたがたと震えている。
 老人と同じ色、同じ構造を持った眼からは、涙が溢れてきた。

 申し訳ない。ただそう思った。
 俺は、決して老人の期待に沿える人間ではなかったのだ。
 いや、この老人だけではない。俺は今まで他人の期待に沿えたことがあっただろうか。満は考えた。
 ……あったのだろうか。

 満は逃げるようにして、席を立った。

 空気が抜ける音を立ててドアが開いた時、大きな揺れが起こった。
 その衝撃で、老人は目を開いたまま、床に崩れ落ちた。 

 満はもう、涙を流したまま歩き出していた。




ひとりごと

「ナウマリサウマンダ、ナウマリサウマンダ」
 ひとりごとが聞こえてくる。声の主の少年は上を向いて、もう二十分はそうやっていた。はじめはかわいい子供の遊びだと思っていたが、こう長時間になると少し気味が悪い。満はそう思った。
「ねえ、それ何の呪文なんだい」
 満は笑顔を作って少年に聞いた。少年は満の瞳を覗き込んでいた。
「ナウマリサウマンダ」
「わかった、誰かと戦ってるんだな。必殺技だろ」
 満は腕を曲げて、ファイティングポーズを作る。少年は満の方に顔を向けたが、すぐに呪文を唱える作業へと戻った。
「ナウマリ…」
「なんだっけ、おれ、それ聞いたことあるんだよな。思い出せない、ちくしょう」
 満はまだ食い下がった。ここまで来ると、どうしても気になってしまうのだ。
「いやなものを消す魔法なんだって」
 少年は口を開いた。
「なんだ、おまえ。その年でそんなに唱えるほど嫌なものがあるのか」
 俺のことじゃないだろうな。満の作り笑いはすこしだけこわばった。
「どうしても消したいんだ」
「何を消したいんだ。いじめっこか。おれも手伝ってやろうか」
 少年は答えない。

「ナウマリサウマンダ、ナウマリサウマンダ」
 少年は何も言わずに続けていた。満は、思い出せないな、なんだろうな、まあどうでもいいことなんだろうけれど、という具合でただなんとなくその様子を見ていた。
 少しして、三十台くらいの女性が現れた。見た感じ恐らく母親だろう。
 その姿を見て、少年は急に泣き出した。母親は、何も言わずに少年の前にしゃがみ込む。
「もう、だめなのよ。わかる、だめなの」
「ナウマリ、サウマンダ、ナウ、マリ、サウマンダ」
 少年は涙をこぼしながら呪文を唱えた。
 満は踵を返した。あまり、見ていられたい光景ではないだろう。
「翔ちゃんにはまだわからないかもしれないけれど、お母さんはね、これが一番いいと思ってるのよ…」
 その後聞こえたのは、母親のこの台詞と翔ちゃん≠フ呪文だけだった。


「ナウマリサウマンダ、ナウマリサウマンダ…」
 満は家に帰るまで、呪文を唱えつづけた。




黄金の騎士

 夕暮れ時に噴水の前で、二人の若者が言い争いをしている。
「だからぁ、報酬は山分けって最初に言ったろ。終わったあとにごねるなんてずるいぜ」
 片方は盗賊ギルドに所属するジーンである。
彼は決して強くはないが、罠を張って敵をその場に留める技術に長けている。 「ずるいのはどっちだ。てめぇ、さっきの狩りでろくに働いてねえだろう。このケガを見ろよ。
あの魔物の爪で何回やられたと思う、三回だ。あと一回やられてたら俺はここにはいねえよ」
 もう片方は剣士ギルドのジェイク。彼は右腕にひどい怪我を負っている。
 明朝から行われた二人の狩りはうまくいったようだが、どうやら内容に問題があったようだ。
 ジーンは罠を使って魔物の出鼻をくじく役割を負っていた。そこをジェイクが叩くという作戦だ。
しかし、ジーンは罠の配置ミスをして、失敗してしまった。
 ジェイクはまんまと魔物に攻撃されてしまい、大きな怪我を負ってしまった。
なんとか撃退はしたものの、彼にとって体は資本そのものであり、これから先何日か働くことのできない彼が受ける損害はけっしてバカにならないだろう。
 事前に報酬は二人で山分けと約束したものの、ほとんど傷を受けていないジーンと大怪我のジェイク、この差は後者にとってはとても納得のいくものではなかった。
 
 二人がそうやって言い合いを続けていると、黄金の甲冑を着けた騎士が現れた。
どうやら彼も狩りの帰りらしい。しかし、傷と思われるものはなにひとつ付いていない。
「どうしたんだ、二人とも」
「あっ、イナフのだんなじゃないですか」
 ジーンはその姿にすぐに反応した。ジェイクも向き直ると、顔を硬直させた。
「イナフさん、聞いて下さいよっ、こいつが」
「ずるいぞジェイク、だんなを味方につけようなんて。そうはいかないぜ。おれの話こそ聞いてください」
 二人は騎士・イナフにかぶりつくように飛びついた。
 イナフはサラサラの金髪をちょっと整えるしぐさをして、息を吐いた。
「おいおい二人とも。話を聞くから離してくれよ」


「なるほど、ジーンは事前に決めた報酬を受け取りたいけれど、
ジェイクは怪我をしていて、それに納得がいかないということか」
 噴水のへりに腰掛けて、イナフは唸った。
「そうですよ。こいつは卑怯だ。逃げてばっかりいやがって」
 ジェイクは立ち上がり、ジーンを指差した。それに反応して、今度はジーンも腰を上げた。
「ごついあんたが壁になって、ひ弱なおれを守るのがセオリーだろうが」
 二人は今にもどつきあいを始めてしまいそうな剣幕である。
「やめろ」
 イナフは静かに言うと、二人を鋭く睨みつけた。二人ともその視線を受けると、あまりの恐ろしさに体を震わせた。
「二人は最初に報酬をどう分けるか決めた。これはいいな」
 二人ともかくかくと、人形のように顔を傾ける。
「狩りにおいて信頼関係は絶対的なものだ。それがなけりゃ仕事が成り立たない。
ジェイク。お前の主張はそれを踏みつける行為だ。許されることじゃない」
 ジェイクは脂汗をにじませた。ジーンはそれを見ると、少しだけにやついた。
「だがジーン。お前も、罠を置くのに失敗したんだよな。
ジェイクはお前を信頼していたからこそ、魔物に向かっていけたんだ。失敗したらしたで、どうしてジェイクを止めて逃げなかった。
そしてなぜ、怪我をした彼をいたわってやれないのだ。お前の行為も、彼の気持ちを裏切る行為に等しい」
 ジーンは俯いた。反論の余地はない。

「じゃあ、どうすればいいのでしょう」
 ジェイクは恐る恐る聞いた。すると、イナフはふっと微笑んで、二人を順番に見た。
「今回は、最初に決めたのだから山分けにしろ。でもな、それだと明日からジェイクが損をすることになる。
だが安心しろ。お前の怪我が治ったら、俺と一緒に狩りに行こう。それで取り戻せるさ」
 ジーンは目を見開いた。
「ええっ、騎士団最強のイナフさんと狩りだなんて! 一日で今日の分の何倍も稼げるじゃないか」
 ジェイクは手を震わせて、イナフを見た。
「いいのですか。自分みたいな格下なんかと」
 イナフは声をあげて笑った。
「いやいや、むしろ来て欲しいくらいさ。次の狩りがちょっと時間が掛かりそうでさ、ちょうど話し相手が欲しかったんだよ。
…ちょっと用事があるから、悪いけどこれで失礼するよ。今度見舞いに行くから」
 イナフはそれだけ言うと、城へと戻っていった。

 ジェイクは涙を流していた。
「時間が掛かりそうだなんて、あの人に限ってそんなことあるはずないのに。
イナフさんは偉くて、強いのに本当に誰にでも優しいな。俺、今日怪我してよかったとすら思うよ」
 ジーンも、この喧嘩の結末に呆然としていた。
「最初はどっちが損をしないかの争いだったのに、だんなが来たらおれたち、気づいたら二人とも結局得をしているじゃないか。
いや、損得なんかで語ったらだんなに失礼だな。本当に懐が深い人だよ、あの人は。さあ、ジェイク、悪かったな。病院へ行こう」
 二人は落ちる夕日を見ながら、イナフこそがこの国の王としてふさわしいと考えていた。


「いいことをしたあとは気分がいいな」
 満はパソコンの電源を切ると、ドアをあけて家を出た。
 黄金の騎士が向かった先は吉野家である。