穴
気づかぬうちに、穴から落ちていた。
いや、正確に言うと、穴からなのかは定かではない。とにかくいつの間にか体が落下していたのだ。
周りには何も見えない。ただただどす黒い空間が自分の周りを包んでいる。とても不気味だ。
手を振り回してみる。が、掴んだのは空気だけだった。何度やっても、宙をかくばかりだ。
何分待っても、落ち続ける。もしかしたら終わりなんてないのかもしれない。
そう考えたら急に不安になってきてしまった。
次の瞬間、下方に白い壁のようなものが現れていた。あれならなんとか掴まれるかもしれない。
タイミングを合わせて両手を突き出した。
しかし、壁は手を拒絶した。なんとか爪を立てたが、そんなことなんでもないかのように
傷付いた壁は上方へ消えていってしまった。
その後も、家や機械など様々なものが下からやってきたが、すぐに上へと吹っ飛んでいった。
何度もそれらを掴もうとしたわたしの体は、どんどん傷ついていった。
しばらくして、一本の細い筋のようなものが出ていることに気づいた。
よく見てみると、腕から出た血が筋のように上へ向かっているのだった。
すぐに止血したが、体が震えた。このままだと死んでしまうかもしれない。
しばらくして、はるか下にまた、何かが現れた。今度は大樹だった。
ケガを恐れたわたしは、手を出さなかった。大樹は通り過ぎる時に、
小さい声で「手を、出しなさい」と言っていたが無視をした。それを見て大樹は「ばかもの」と言った気がする。
わたしはもう、手を出せないでいた。
その代わり、思った。この空間はどこまで続いているのだろう。底はどこにあるのだろう。
体を下に向け、わたしはさらに落ちていった。その頃には、黒い空間以外、なにも見えなくなっていた。
山
故郷から山の全体をみわたした。なんだかなだらかで、
もしかしたら簡単に登りきれてしまうんじゃないかと期待する。
友人は「そんなわけないだろう。油断するな」と言うが、「かるい、かるい」とうきうきしながらわたしは準備に熱中した。
予定よりもちょっと時間がかかったが、ふもとにたどり着く。
見上げてあぜんとした。山は硬い岩でできていて、角度も急だったのだ。
それを見るだけで、どうやっても楽にのぼれるはずがないと確信できた。
手をかけている連中の顔も真剣そのものだった。中にはあきらめてふもとでシチューを喰う人間もいた。
話しかけると「あんなモン無理だ、無理。すぐにやめて帰りなさい」などと言うが、彼の手は血だらけだった。
やっと山にピッケルを突き立てたころ、上から人が落下してきた。彼はひとしきり血を吐いたあと、シチューをすすって故郷に帰っていった。
落ち込んではいなかった
。
それを見てちょっぴり足がすくんだが、また岩に自分の腕をたたきこんだ。
その後四回か五回落下したが、コツを覚えたのか休憩できそうな大きな岩の上まで来ることができた。
先客がふたりほどいて、彼らは山がこの先どうなっているのかを言い合い、喧嘩していた。わたしは意見を求められたが
「そんなもの、行ってみればわかる」とすぐに山登りを再開した。ふたりは「しっかり調べておかなくては」と本を取り出していた。本には予想だとか、コツだけが載っている。
山はきびしかった。手からは血が吹き出、腹も減った。
こんなことならふもとでシチューを食べていればよかったと後悔したが、下に戻るには時間が掛かってしまう。
登るしかないのだ。シチューはもう、食べられない。
つらそうにしている女に出会った。女はいますぐにでも落ちそうなほど弱っていた。
女はわたしの足をつかんで「助けてちょうだい」と言った。「助けたいのはやまやまだが、わたしも辛いのだ、余裕がない」
と言うと、「じゃあこれをあげますから」と箱を取り出した。あけてみるとりんごが入っていた。
それを受け取り、わたしは女を引っ張りしばらく進んだ。
少しして体を休めた女は「もういいわ」と自分で登りはじめた。りんごも返すように言われ、わたしはしぶしぶ食べかけを渡した。
そしてとうとう頂上付近にたどり着いた。手の皮は堅くなり、腹も減らなくなっていた。
山のてっぺんに手をかけ「やった」と登りきった直後、
岩山の更に上、あらたな針の山がわたしを出迎えた。