最高の人


 場末のバーに飛び込んだ満は、すぐにバーボンを頼んでそれに食らいついた。
「どうだった」
「武志か。そんなもん、おれの様子を見りゃわかるだろう」
 満の態度を見て、武志は眉を下げた。
「だめだったか」
 満は、目を合わさずにグラスを空にしてしまった。
「ああ。だめだったよ。他に、好きな人でもいるんじゃないの」
 グラスをテーブルに叩きつけると、満はすぐにマスターにおかわりを頼んだ。
「くそったれ。おれはいつもうまくいかないんだ。ちくしょう」
 武志は、しばらく満のやけくそな様子を見ていた。
 今にも、グラスをぶちまけて暴れだしそうだった。
「そうか。よかったな」
「なんだと」
 満が、グラスをぶちまけて武志の胸倉を掴んだ。バーの様子は、なにも変わらない。

「もう一度言ってみろ」
「よかったなと言ったんだ。落ち着け。俺の話を聞けよ」
 満は、涙をこぼした。
「どこが、どこがよかったってんだよ、ちくしょう。おれがみじめな気持ちでいるのによう」
 武志が、満の肩を叩いた。
「お前、今悔しいんだろ」
「ああそうだ」
「そう思う気持ちは、使えるぞ。もしもお前がそれを仕事に生かしたなら、すばらしい成績となって返ってくるだろうよ」
 満は武志の目を見つめた。武志は続ける。
「そうやって思いっきり悔しがるだなんて、なかなか無いことだろう。
あの女とは、縁がなかったと思ってあきらめろよ。今、その気持ちをここで無駄に消費してしまうだなんてもったいないことだ」
「たしかに、そうかもしれないな」
 武志は微笑んだ。
「お前はここから始まるんだよ。お前の逆転は今日から始まるんだ」
 満の涙は、止まった。
「そうか。おれは、今日から逆転するのか」
「だから俺はよかったなって言ったんだ。よかったな、満。あのクソ女のおかげで、お前は立ち上がるんだぜ」
 満はまた、少し涙ぐんだ。
「ありがとうよ。今、みじめな気持ちが全部なくなるだなんてことはないけど、少しは消えたし、おれはこの悔しさを生かしたいと考えてる。
ありがとう。お前のおかげだ。お前って最高だよ」
 二人はがっちり握手した。


「それで、もう大丈夫なの」
「ああ、大丈夫だよ」
「よかった。これであの男に付きまとわれずに済むのね」
「単純な奴だから、もうきみに言い寄ることもないだろう」
「ありがとう。ほんとうに迷惑していたのよ。辛かったわ」
「きみの楽しい生活は、今日から始まるんだよ」
「あなたって、最高ね」



ラムレーズン・クッキー


 ラムレーズン・クッキーを食べるときには、注意せねばならない。
 もしもあなたの他に、あなたより死ぬ程食べたいと願う人間がいるのなら、それは分けてあげなければならない。

 そうでなくても、もしかしたらいるのかもしれない、という危惧くらいはしておいたほうがよい。
 いるのか、いないのかの問題よりも、そうして食べるべきなのだ。

 ラムレーズン・クッキーが盗まれる可能性も考えたほうがよい。
 あなたが口を開け、さあ、食べようとインサートしようとした瞬間、
あなたより死ぬ程食べたいと願う人間が奪いにやってきて、窓ガラスを破るかもしれない。  

 盗む、などという強引な方法でなく、説得を試みる人間もいるかもしれない。
 そうやって、自分の手元から離れてしまって後悔したのでは遅いのだ。

 もしそんなことがなくても、ラムレーズン・クッキーの気持ちも考えておくべきだろう。
 もしかしたらあなたに買われた瞬間に、クッキーにはあなたがヒトラー・ユーゲントのように見えたかもしれない。
 台所の棚というゲットー収容所に収められ、悲しみと悔しさのなかで毎日日記を綴っているのかもしれない。

 そうだとしたら、あなたはそれを簡単に食べてしまえるだろうか。
 あなたがもし心ない冷血人間で、なんとも思わないのならよいが、そうもいかないはずだ。
 忘れてはならないのが、彼らが食べられる瞬間のためだけに生まれてきたということだ。
 誰に、どんな状況で、どのように食べられるのかは彼らの人生にとってもっとも重要なことで、それこそが彼らの存在意義なのだ。
 それを、あなたという人間は全て受け止めてあげられるのか。
 自己分析を重ね、自分が本当に彼らを食べる資格があるのか、考えなくてはなるまい。


 それだけの心意気と気遣いが必要なのだから、
 ラムレーズン・クッキーを食べるときには、注意せねばならない。




手に入れた男



「別にね」
 満は顔を上げた。
「おれはね、崇高なことをしようってんじゃないんだ。記者さん、あんたはその辺を勘違いしてないかい」
「そうかもしれませんね」
 記者は答える。
 それを見て、満は満足そうにコーヒーをぐいっとやった。
「いつもね、感じてたんだ。縄みたいなものをさ」
「はぁ、縄ですか」
「そうさ。どんなことをしたいなんて理念うかべてさ、まるで縄だよ」
 記者が、手を打った。
「なるほど、縛られていたと」
 満は眉を片方だけ下げる、ニヒルな笑い方をした。
「その縄からね、長いことかけてやっと開放された。いまはそんな気分なんだ」
 記者はメモ帳にすごい勢いで何かを速記した。
 満は、耳に刺した花をずらして、リベラル的な何かを演出した。

「それで、結果どうなったかっていうとさ」
「ええ、ええ」
 記者が机に手を置いた。体は彼の方に傾いている。
「もちろん、ぜんぶいい方向に行ったってわけじゃない。何事にも、マイナス面ってものはあるからね」
 満が、角砂糖をコーヒーに追加した。この行為は、喫茶店に入ってからもう十回は繰り返されている。
「それでもさ、手に入ったよ。おれがずっと欲しかったもの」
 記者は速記のスピードを上げた。
 満は、伊達眼鏡の端をつかんでズレを直した。フレームに埋められた電飾がネオン・カラーで輝いた。
「欲しかったものといいますと、なんでしょう」
「おれが言うべきことかねえ、それって」

 満の表情が曇る。彼の履くビーチサンダルのワインレッドが、記者の目に残った。
「いえ、すいません、つい」
「それに、理解されることじゃないんだ。おれが手に入れた。それだけでいいじゃない。ね」
 満は、歯を出して笑った。前歯の右側だけが金歯だった。
「そうですね。手に入れた……手に入れたんですね」
「そう。それだけでおれは充分に満足しているし、もう戻るつもりもないんだ」
 満は遠い目をして、外を見た。彼の真っ白な肩パッドが、妙に印象的だった。

 記者は、自分の目から何か熱いものが噴出してくるのを感じていた。
 満はそれを見ると、やはりニヒルな顔をするのだった。





違う人



 ある日目覚めると、僕は違う人になっていた。
 何が違う人なのかと言うと、この僕が違う人だというのだから、
 それはもう間違いなく違う人なのだった。

 違う人になったからには、違う人でないとできないことをしようと思った。
 僕は違う人の部屋を探り、違う人の日記を探した。
 案の定出てきた。
 ページをめくると、違う人の、違う日常が書いてあった。
「四月三日 あの人は僕にふりかえってくれない」
「四月四日 あの人は僕をすこしだけ見た」
「四月五日 あの人は僕と目を合わせた」
「四月六日 あの人は僕とセックスした」
「四月七日 あの人は僕とけんかをした」
「四月八日 あの人は僕と」

 違う人の人生を刻み込んだ僕は、違う人の部屋の、
 違う人のテレビをつけた。
 違う人の見る番組がやっていた。
 僕は部屋をまた見回した。
 ベニー・グッドマンのレコード、秒針がこわれて下をむきっぱなしの掛け時計、
 レイモンド・チャンドラー、ボブ・グリーン、村上春樹。

 僕は疑った。
 もしかして今の僕は違う人ではないのかと。
 違うのではないのか。
 僕は焦って、部屋を飛び出した。

 女の人とすれ違った。
「あの、ちょっといいですか」
 僕は声をかけた。
「あっ、あなた」
 女の人は声をあげた。
「そのくらい、わたしでも言わなくてもわかるわよ。違う人じゃないの」

 ああ、僕はやはり違う人だったのだ。